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宮沢賢治とアレニウス親子

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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宮沢賢治 (1896-1933) について、8月27日が誕生日なので、ネット上で話題になっているのを見かけた。それをきっかけに、いくつかウェブ検索をしてみて、わたしにとってあたらしいことを知った。じゅうぶんしらべたわけではないが、書きとめておく。【わたしの宮沢賢治への関心は、ほぼ『グスコーブドリの伝記』と『雨ニモマケズ』にかぎられている。】

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宮沢賢治の、とくに『グスコーブドリの伝記』 に出てくる大気中の二酸化炭素がふえると気候が温暖になるだろうという理屈が、Svante Arrhenius (スヴァンテ アレニウス, 1859-1927) の影響をうけていることはあきらかで、わたしは別のウェブページ [火山が爆発したら暖かくなるでしょうか?] (英語版 2004-01-24, 日本語版 2007-08-06) で、そのときまでに知ったことにふれた。

大沢 (2016) によると、Arrhenius から宮沢賢治への影響は、宇宙観など、いろいろな面におよぶ。(わたしはそちらには深入りしないことにする。)

Svante Arrhenius の著書で日本語に訳されているものを、大沢さんは、一戸 直蔵 訳 (1914) の題名が『宇宙発展論』となっているもの (スウェーデン語版とドイツ語版の書誌情報は上記のわたしのウェブページ中でふれた) をふくめて 3つあげている (ただしそのうち1つは原書がはっきりせず、複数の出版物から訳者が編集したものかもしれない)。いずれも宇宙論・天文学の話題をふくんでいるが、地球史のなかでの気候の変遷の話題をふくんでいるのは『宇宙発展論』だけのようだ (確認していないが)。

賢治は、火山の噴火はエーロゾルが太陽放射を反射する効果によって気候を寒冷化させるという学説を知っていただろうか。大沢さんが調べたところによれば、気象学の代表的教科書である 岡田 武松 『気象学講話』(初版 1908年) で、火山の噴煙が気候におよぼす効果が論じられているのは 1928年の第5版からである (1916年の第4版は噴煙に言及はしているが気候への影響におよんでいない)。『グスコーブドリの伝記』が出たのは1932年だから、 第5版はすでに出ていたが、賢治がそれを読んでいながらあえて無視したことよりも、読んでいなかったことのほうが、ありそうだ。

なお、『グスコーブドリの伝記』 の「窒素肥料を降らせます」の件についても、『宇宙発展論』にある、アンモニア化合物や硝酸塩が大気中の放電によって生じるという記述との関係がありうる。ただしその本では人工的にアンモニアなどを合成することを論じているわけではない。他方、放電によって硝酸を合成することは Birkeland などによってすでにおこなわれていた。だから、これは賢治が新しい化学の知識を得ていたことの反映ではあるが、直接に Arrhenius の影響とはいえないだろう。

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わたしにとってあたらしかったのは、Olof Arrhenius (オロフ アレニウス) と賢治とのかかわりだ。

その情報源は、「賢治と農」 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/ という個人ブログで、ブログ主は「馬場万磐」 (Twitter では「ばばばんばん」) となのっている。
その話題の一連の記事の一覧が「2021.02.11 (まとめ) 賢治とアレニウスと土壌分析 https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202102110000/ 」にある。
そのうち「2021.01.26 賢治に影響を与えた2人目のアレニウス https://plaza.rakuten.co.jp/kenjitonou/diary/202101260000/」によれば、Olof Arrhenius は農芸化学者で、1926年に Kalkfrage Bodenreaktion und Pflanzenwachstum (ドイツ語、『石灰問題 土壌反応と植物の生育』 ) という本を出している。そして、盛岡高等農林学校の教員で賢治の師匠であった (1920年に国の農事試験場に移った) 関 豊太郎 (1868-1955) とは面識があり、日本に来たこともある。
賢治は、結果として晩年となったころ、肥料として石灰を売る会社につとめていた。その職業選択は、酸性土壌を中和するために石灰を入れるべきだという関の学説にもとづいていた。関のその主張には Olof Arrhenius の影響もあっただろうと考えられる。(ただし、井上 (1996) によれば 関は 1917年にすでに炭酸石灰を入れるべきだと主張している。そのとき Olof は 22歳だから、Olof から関への影響はまだなかっただろう。)

石灰を入れることの意義について、現代の土壌肥料学者が書いた記事を見てみた。

これによると、日本に多い「黒ボク土」は、活性アルミニウムやアロフェン (アルミニウムをふくむ粘土鉱物) が多く、それがリン酸と結合してしまうので、植物がリン酸を得にくい。(石灰を入れるのはそれを弱める効果があるのだ。) 黒ボク土について最初に研究したのは 関 豊太郎だった。なお、黒ボク土が黒いのは腐植を多くふくむからである。また黒ボク土を国際的には andosoils というが、これはアメリカ人の学者が日本語の「暗土」をもとにつくったことばだそうだ。

Olof Arrhenius について、Wikipedia 日本語版、英語版には記事がない (スウェーデン語版にはある)。ウェブ検索してみると、つぎのページがみつかった。

Smith さんの関心が生態学なので、業績のうちでとくに、生物の種数と生息空間の面積との統計的関係を論じたことがとりあげられているのだが、年譜をみると、ストックホルムの農事試験場と、ジャワのサトウキビの試験場や砂糖会社で働いた経歴がある。

そして、Smith さんの記述によれば、Olof は Svante の息子である。他方、馬場万磐さんは「オーロフは、日本ではスヴァンテ・アレニウスの甥と紹介されています。しかし、wikipedia(スウェーデン語版)ではスヴァンテの息子の名前もオーロフ・アレニウスと書かれています。謎です。」と言い、「同じスウェーデンのアレニウス一族の」という紹介のしかたにしている。

馬場万磐さんのこの件の情報源かどうかよくわからないが、「甥」としている日本語文献の例はみつかった。

ひとつは、井上 (1996) だ。これには、「東北砕石工場の技師時代,賢治が炭酸石灰の販売促進を目指して作成した広告文がある。. . . その中のアレニウス博士は . . . 大正15年に出版された「石灰問題 -- 土壌反応と植物の生育」の著者でスバンテの甥のオーロフ・アレニウスである。」とある。井上さんが「甥」だと思っていたことはわかるが、その根拠はわからない。

もうひとつは、並松 (2019) だ。ただし、本文ではなく注 48 に「このアレニウスは . . . スバンテ・アレニウス . . . ではなく,その甥にあたるオーロフ・アレニウスである。」と出てくるだけだ。注のつづきに 卜蔵 (1991) への参照があるのだが、その文献にはどちらのアレニウスも出てこない。並松さんが情報源をとりちがえたか、別の注とするべきものをつなげてしまったのだろう。注 22 の参考文献として井上 (1996) があげられているから、情報源はそれなのかもしれない。

Smith さんの記事と、Wikipedia スウェーデン語版の [ [Olof Arrhenius] ] の記事でわたしが読める語をひろい読みして得た情報のいずれによっても、Svante の息子の Olof Arrhenius (1895-1977) は 1920年から 1925年 または 1926年 (資料によって 1年ずれるが) まで ストックホルムの農事試験場に勤務しているので、(同じ名まえの いとこ がいて近い分野の専門家になっていたことはありえなくはないが) 石灰肥料の本を書いたのはこの Olof だと思う。

  • 卜蔵 建治 [ぼくら たけはる], 1991: 冷害と宮沢賢治 -- 「グスコーブドリの伝記」の背景。『農業気象47 (1): 35-41. https://doi.org/10.2480/agrmet.47.35
  • 井上 克弘, 1996: 土壌肥料と宮沢賢治 1: ペドロジスト, エダフォロジストとしての賢治。『日本土壌肥料学雑誌67 (2): 206-212. https://doi.org/10.20710/dojo.67.2_206
  • 並松 信久, 2019: 宮沢賢治の科学と農村活動: 農業をめぐる知識人の葛藤。『京都産業大学論集 人文科学系列52: 69 - 101. http://hdl.handle.net/10965/00010259

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わたしは Svante の息子に Olof という人がいることにはすでに気づいていた。ただ、その専門や業績をこれまでしらべていなかったのだった。

ひとつのきっかけは、Svante の地球温暖化の論文 (出版 1896年) に関連した逸話として、Svante と Sofia (旧姓 Rudbeck, 1866-1937) との結婚生活がうまくいかず、Sofia は生まれたばかりの息子をつれて別居 (のち離婚) してしまった、という話を読んだことだ。(Weart の 『温暖化の発見』にも出てくる。) さびしさをまぎらわすために計算にうちこんだ、というような話になっていたと思うが、わたしは、子どもがいないから計算に集中できたのかもしれないと思った。その息子の名まえが Olof なのだ。

【もしかすると、Olof が、自分は母のもとで育ったので Svante のもとで育ったわけではない、と言ったのが、Svante の息子ではない、と誤解されて、「甥」と思われてしまったのだろうか?】

もうひとつ、Svante の孫の Gustaf Arrhenius (1922-2019) は地球科学者で、おもにアメリカのScripps Institution of Oceanography で働き、海底堆積物に関する業績がある。(また、いま検索してみると、月・惑星関係の研究もしている。) Gustaf は Olof の息子なのだ。

【(Wikipedia スウェーデン語版 [ [Sofia Rudbeck] ] の記事などのひろいよみによれば) Sofia は離婚後に写真家になったが、学生のときは地質学・鉱物学を専攻していた。その関心はつづいていて Olof や Gustaf の専門の選択に影響をあたえたかもしれない、とわたしは思った。】

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「賢治は冷害の経験が実質的にはなかった」というブログ記事を見かけた。ブログ主は 鈴木 守 さんらしい。

根拠となっている文献はつぎのもので、天候に関する情報源は卜蔵さんによる本だ。

  • 卜蔵 建治, 2001: 『ヤマセと冷害』。成山堂書店。
  • 森 嘉兵衛 監修, 1979: 『岩手県農業史』。岩手県。

鈴木さんが言いたいことは、賢治が18歳のときから没年までのあいだに東北地方の冷害は 1931年 だけであり、しかもそのとき稗貫郡は不作ではなかった、ということだ。鈴木さんから見ると、子ども、しかも農家ではない都市部の子ども (馬場万磐さんのブログによれば賢治の父親や親族は温泉や鉄道の経営にかかわっていた) では「実質的に」冷害を知ることができないはずだ、ということらしい。しかし、卜蔵さんは (わたしが見ているのは1991年の論文だが)、賢治が10歳のころ (1905, 1906年) や中学生のころ (1913年) に冷害があったことを重視している。わたしは、そのとき賢治は農業にとっての冷害がどんなものかくわしく理解してはいなかっただろう (という意味では鈴木さんのいうとおりだ) が、それが社会にもたらした困難を感じることはできて、それが農学の専門家になろうとした動機にもなったし、文学作品の動機にもなっただろうと思う。

ともかく、鈴木さんの、賢治がおとなのころには冷害よりも頻繁に干害があった、という指摘は、気にかけておくべきだと思った。『雨ニモマケズ』の「ヒデリ」は、修正せずに「ヒドリ」と読むべきで日雇いのこと (漢字をあてれば「日取り」だろうか?) だという説もある。しかし、鈴木さんの記述を見ながら考えると、賢治は寒さよりさきに「日照り」を気にかけたにちがいないと思える。