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「サイエンス ウォーズ」についてわたしが知っている断片的なこと

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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ネット上(わたしはきっかけをTwitterから得ることが多い)や、テレビや新聞などのマスメディア上で、話題になっていることに対して、多少は思いあたることがある。しかし、わたしは、その話題を積極的に追いかけているわけではないし、その話題の背景となるものごとについての専門的知識があるわけでもない。しろうとなのだ。公開の場でのしろうとの発言をもうひとつふやすことにあまり意欲はわかない。

しかし、わたし自身の知識もじゅうぶんでないと思いながらも、わたしから見て、わたしよりももっと背景知識が乏しかったり、思考が不じゅうぶんだったりする(ように見える)発言が重視されているのを見ると、ちょっと発言しておきたくなる。

そういうとき、わたしは、Twitterでちょっと「つぶやく」だけにすることが多い。しかしTwitterでの発言は、ひとつずつばらばらに伝わってしまうという欠点がある。断片的な発言にすぎなくても、ひとつのtweet (140字)におさまらない考えを伝えるためには、Twitterとは別の場が必要だ。そこでわたしが向かうのは、ブログになる。

そんなわけで、このブログには、「わたしが積極的に追いかけている主題ではないので、権威ある情報源ではないし、今後も改良する可能性は低いが、これまでにわたしの考えたことをひとまず示しておく」という趣旨の記事を、ときどき出すことになる。この記事もそうだ。

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2017年8月末から9月はじめ、「サイエンス ウォーズ」(Science Wars)と呼ばれたできごとのことが、ちょっと話題になっていた。

これは、Alan Sokalが書いたパロディー論文が1995年に出版されたという事件(「ソーカル事件」)を含むものごとをさしている。ただし、おもにソーカル事件よりも前のことをとりあげる人も、後のことをとりあげる人もいるようで、意味のひろがりは人によって統一されていないと思う。

わたし自身は、「サイエンス ウォーズ」という用語を使いたくない。とくに、複数形になっていることが、同じ対立軸での衝突のくりかえしを意味するととられるとまずい。複数の対立軸があることを示唆することがあきらかならば、まずまずよい。しかしそれならば、複数の対立軸をそれぞれ明示するような表現をしたほうがよく、漠然とした wars のような表現は使わないほうがよいと思うのだ。

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わたしが「サイエンス ウォーズ」ということばを知ったのは、『現代思想』1998年11月号の特集の表題としてだったと思う。その号は、ソーカルの主張とそれへの論評を中心に、全体を読んだ。それがこの話題についてのわたしの知識の基盤になっている。ただし、特集のうちでだれがどんなことを言ったのかを分けて覚えていない。おもな話題がアメリカでおきていることの話だったので、わたしにとってはまさに「対岸の火事」であり、ちょっと知っておいたほうがよいが深刻に受け止める必要はないものと感じられた。

SokalとBricmontの『知の欺瞞』は、日本語版が出て(2000年)まもなくざっと読んだけれど、読書ノートをつくるほどていねいには読まなかった。『現代思想』で読んだソーカルの主張を確認できたのはよかったが、そのほかに、わたしの主観としては、重要性を感じなかったのだった。

金森 修さんの『サイエンス・ウォーズ』も、2000年で新刊が出たときに読もうと思いかけたことはあるのだけれど、『科学』2001年2月号に出た三中 信宏さんの書評の論調があまりに激烈だったので、考えを変えた。わたしは三中さんの主張が全部正しいとは思わなかった(激しい非難のことばを含む文章の記述をわたしはあまり信頼しない)。しかしそれが正しい可能性もあると思った。わたしは金森さんの本を「要注意」に分類した。おそらくわたしはそれを読んでも金森さんと三中さんのどちらが正しいか(あるいはどちらも正しくないか)を判断できず、ますます迷うだろう。わたしには、そこで迷っているよりも、もっと読みたいものがあった。(実際、科学論では、Kuhn, Price, Ziman, Fullerなどの本を読みかけていた。) その後、わたしはその本を(2014年新装版も含めて)読まないまま来てしまっているし、今後も必要にせまられないかぎり読む元気はない。

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「サイエンス ウォーズ」というキーワードによるものではなかったが、ソーカル事件関連の話題については、Brown (2001)の本を、日本語版が出る前の2005年ごろに英語で読んだ。全体を読んだはずだが、何が書いてあったかあまり印象に残っていない。たぶん、わたしにとっては、自分の考えに近いことが書いてあったので、あまり抵抗なく読めたのだが、この本から得た知識として気にとめる必要を感じなかったのだ。

その後、2013年に、中村 編 (2013)『ポスト3.11の科学と政治』の本を読んだら、その中で、田中幹人さんが、Harry Collinsや松本三和夫さんの著作とあわせてBrownの本を参照していたので、わたしはBrownを思い出したのだった。そこでわたしが考えたことは、中村編の本の読書メモの田中さんの章に関する部分に書いた。ここでは、ひとつの要点だけ述べる。ソーカル事件を含む状況をとらえるためには、科学に対する人びとの態度を、少なくとも、社会のしくみに対する「改革」対「保守」と、正統的科学観への支持・反対との、2軸で整理するべきなのだ (これがこのブログ記事の1節で述べた「複数の対立軸」の具体例)。

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「サイエンス ウォーズ」と直接関係ないが、わたしの金森 修さんの著作とのささやかなかかわりについても書き出しておく。

わたしは金森さんの著作をあまり読んでいない。金森・中島 編(2002)『科学論の現在』は全体を読んだはずなのだが、金森さんの執筆部分については印象に残っていない。

ひとつだけ、わたしが積極的に読んだ金森さんの著作は、2013年の日本哲学会のシンポジウムでの報告者として、シンポジウムよりも前に書かれて哲学会の雑誌に出た論文だった。

それは、金森さんとならんで報告者になっていた伊勢田 哲治さんのtweetを見て、2013年当時の金森さんの、福島の原子力事故被災地に関する認識は、一方の極端に偏っていると思って、原文を確かめたくなったのだった。その件については、わたしが読んだ結果は、伊勢田さんの認識がもっともで、金森さんの認識は(象徴的価値はあるのかもしれないが)現実的でないと思っている。

しかし、金森さんのその論文の本論で示された「科学的イデオロギー」という概念は、(カンギレムに由来するものだそうだが)、わたしが気にかけている(「ニセ科学」と呼ばれることがあるものを含む)疑似科学の問題に対して有益だと思った。ただし「科学的イデオロギー」という表現はわかりにくく、その表現のまま自分の論考で使うのはうまくないと思った。わたしはその概念自体ではなくそれが現われる状況のうち一部類について「学説過信」と表現してみた。この件は[2013-09-06の記事]に書いたので、これ以上くりかえさない。

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