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「今夕」: 文字表現はあるが音声表現があやしい語の例

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【この話題で読者の知識に役だつことを述べるためには、これまでの日本語学の知見をふまえて議論を組み立てるべきなのだと思う。しかしわたしには文献を調べる元気がなく、自分で国語辞典をひくことさえしていない。むかし読んで著者も題名も覚えていないいろいろな本で得たわたしの頭の中の知識を操作しただけで書いていることを、おことわりしておきたい。】

ある人がTwitter上で、たぶんテレビのアナウンサーが「今夕」を「こんゆう」と言ったのに対して、それはまちがいで「こんせき」が正しいと言っていた。

しかし、国語辞典に「こんゆう」が主(「こんせき」が副)の形でのっている例を示した人もいた。

わたし自身の語感をふりかえってみる。書かれた「今夕」は見慣れた文字列であり、不自然に思うこともなく読みとれる。声を出して読もうと思うと困る。漢語だと思えば、「夕」の字音は何だったか考える。「一朝一夕」を思い出して「せき」だとわかる。それならば「こんせき」だろうか。しかし「こんせき」と聞けば「痕跡」かと思ってしまう。「こんゆう」のほうは、自分では使わないが、聞けば意味の見当がつくことばだ。

近代になるまえに書かれた漢文の中に「今夕」が出てきたのならば、日本語での読みは漢音「きんせき」あるいは呉音「こんじゃく」が正しい、などと言えるのだろう。【ここはWiktionaryで1字ずつ「音読み」を見ながら書いている。】

しかし、いまの実用に使われている語についてならば、現代日本語の「今」と「夕」という要素から組み立てた語と考えるべきなのだと思う。

話しことばとしては「きょう の ゆうがた」と言えばよいはずだ。ところが、新聞の小さな記事の紙面やテレビの字幕などの狭い場所に示すことを求められた場合には、「今日の夕方」よりも字数の少ない表現がほしくなる。「今夜」(こんや)は確かに使われていることばだ。「今朝」は、古くからあるやまとことばの「けさ」が「読み」とみなされることが多い。おそらくそういったものとの類推で、「今夕」という文字表現がさきにできたのだろうと思う。

わたしは、日本語は、基本的には、まず音声表現によって成り立つ言語で、文字表現は二次的なものだと思っている。しかし、個別の語については、まず文字表現ができて、それの音声表現を考える、というふうに進む場合もあるのだ。

「今夕」という個別の事例については、わたしは、テレビやラジオのアナウンスに関する限り、アナウンサーが原稿を「意訳」して「きょう の ゆうがた」と読むのがよいとすればよいと思う。「文字どおり」に読む必要が生じたときには、聞いてわからない「こんせき」よりも、「じゅうばこ読み」の「こんゆう」を許容したほうがよいと思う。