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「気候区分」をたなあげにして、気候を連続量の集まりでとらえよう

【ひとまず覚え書き。地理教育に向けての呼びかけは論旨を組み立てなおす必要がありそうだ。】

ネット上の会話で「ケッペンの気候区分」が話題になっていた。

【気候の専門家どうしの話題にはあまり出てこないのでしばらく忘れていたのだが】日本語圏の多くの人にとって、「気候」ということばからまず思いうかぶのは「ケッペンの気候区分」なのかもしれない。高校で「地学」が開講されているところは少なくなってしまったが、「地理」は国として必修ではないものの学校として必修のことが多いし、中学の社会科の地理分野でも気候の話題はある。そこで「熱帯」「温帯」などの用語が導入される際に、ケッペン(W. Köppen)あるいはその流儀を引き継いだ人々による、月平均気温と月降水量の累年平均値による定式化が定義のように使われることが多いにちがいないのだ。

ところが、地理学者のうちで気候(学)を専門とする人は、ケッペンを過去に気候学に貢献した人と認めながらも、ケッペンの「気候区分」を教えてほしくない、あるいは「気候区分」という名まえでは教えてほしくない、と論じることが多い。

わたしは、1970年代後半の学生のときに、地理の鈴木秀夫教授(当時は助教授だったと思うがこの表現で統一しておく)の気候学の講義の中で、「ケッペンの『気候区分』は気候区分ではない」と言われて驚いたのだった。言われてみれば、ケッペンのやったことは、そのときまでに知られていた植生の分類 (森林・草原・砂漠、さらに森林を常緑樹林・落葉樹林など)と、気象観測で得られていた気温・降水量の数量を、世界地図上での分布として比較し、それぞれの植生型が存在する気候条件を経験的に示した、ということだ。気候の数値によるしきい値を置いて世界を区分したものではあるが、そのしきい値の根拠は気候に内在するものではない。鈴木教授は、気候と生物現象や人間社会現象との関連を論じたかったのだが、その際に、生物の分布を説明しようとしてつくられたケッペンの「区分」を使ったのでは循環論法になってしまうと考え、まず気候に内在する特徴による「気候区分」を得てから、それと生物現象や人間社会現象の分布を対比しようとしたのだ。

他方、地球物理の気象学でも「気候」は重要な話題ではあったのだが、気候の「区分」は、ケッペンのものも鈴木教授が気候区分と認めるようなものも出てこなかった。そこでも地上気温や降水量は重要な変数ではあったが、実数値をとる連続変数であって、しきい値を置いて区分する必要はなかったのだ。

【「気候」ということばの定義は一定していないので、わたしが「気候」ということばの意味をどうとらえているか述べておく必要がありそうだ。自分が書いた文章から引用しておく。説明不足で申しわけないが、説明しだすと長くなる。】

【わたしは、気候の概念には、次のような発達の過程からくる3層が重なっていると考えている。第1に、気候は、人間をとりまく環境(「風土」ともいう)のうち、寒暖・乾湿・風などの地表に近い大気に関する要素群をさしていた。第2に、近代科学の初めから大気の状態は気温・気圧・風速などの物理変数で測定・表現されてきたので、気象に関する物理変数の(季節を区別した)1年より長い期間の統計に現われるものごとを気候というようになった。代表的な数量として、気温・降水量などの「平年値」があるが、これは(たとえば1981年から2010年までの)30年累年平均値である。第3に、第2の意味の気候の変化の原因を数理物理的に考える過程で、大気・海洋・雪氷などの部分からなり部分が相互作用しながら変化しうる「気候システム」という概念が成立した。「気候」はこの気候システムの状態をさすというとらえかたもできる。】

1980年代後半になって、気候変化(とくに「地球温暖化」)が生態系や人間社会におよぼす影響に関する研究が始まった。そのとき、将来おこりうる気候の表現のしかたとして、「ケッペンの気候区分」を使った研究例を見て、わたし自身も試みたことがある(学会発表で見せたことはあったが結論的部分には使わなかった)。これはむしろ、気候の変化によって植生がどうなるかを予想するための中間的作業だった。そのような研究例では、ケッペンの定式化のほかに、ホルドリッジ(Holdridge)、ヴァルター(Walter)・リート(Lieth)・ボックス(Box)、ブディコ(Budyko)・内嶋、ウッドワード(Woodward)の定式化を使ったものもあった。それらは必ずしも地理的「区分」ではなく、気候変数を連続量としてとらえたうえで、その変量空間のうちに植生の類型を位置づけたものが多かった。比較してみると、細かい定義は違うのだが、植物の生育の制約要因として、「エネルギー・(夏の)温度」、「水分」、さらに「冬の温度」を考える、とまとめられるように思われた。わたしのその件に関する思考は2000年ごろで止まっているが、そこまでは教材ページ[陸上植生分布および光合成純生産と気候要因の関係][植生を制約する気候要因の探索]などに書き出してある(文献リストは後者のページにある)。

鈴木教授の「気候に内在する区分」にこだわった議論は、講義を聞いた当時、あまりよくわからなかった。最近になって、著書を読みかえしてみた(読書メモ[風土の構造][氷河時代][気候と文明][森林の思考・砂漠の思考])。それでもよくわかったわけではないが、離れた立場から見ると、気候(それ自体)が大地の「区分」に使えるような重要な不連続性を含んでいるという考えへのこだわりのせいで、研究によって得られる知見が(まちがいとは言えないものの)豊かでないものになってしまったのではないか、という気がしてならない。科学論者ラカトシュ(Lakatos)の表現を借りれば「後退的研究プログラム」だったのだ。

気候について教えるにあたって、気温や降水量の連続変数を示すよりも、整数個の類型として説明したほうが直観的にわかりやすい、ということは確かにあるだろう。「区分」を持ち出すことのまずさは、類型を示すことではなくて、類型の境界が明確でそこに不連続があると考えることにあるのだと思う。

地理の話題で「区分」をしたがる理由には、地図上で境界線をひいて塗り分けるという表現方法が便利であるせいもある。この表現方法は、人間社会の現象を表現するには適していることが多いようだ。しかしそれは、国境や行政区画や土地所有権が明確になった近代の社会だからなのではないか? [トンチャイ・ウィニッチャクン 著 Siam Mapped (地図がつくったタイ)の読書ノート]。類型化できるものでも、類型間の境界は不明確(fuzzy)であることがふつうだと考えるべきなのだと思う。

気候のうちには、変数の空間的勾配がきつくなっているところが不連続と呼ばれることはあるものの、不連続という表現がほんとうにふさわしく、しかも地理的位置が固定されるような現象は、なかなかない。

気候に内在する不連続があるとすれば、第一に考えられるのは、水(H2O)の相変化に伴う、氷(雪を含む)が存在するかしないかの境だろう。ただしこれは気候を大気の状態ととらえたときにそれに内在するものではない。おもに地表に、積雪、凍土、海氷や湖・川の氷が存在するかどうかが重要な分かれめなのだ。なお、生物体内の水が凍るかどうかも生物の生存にとって重要な制約条件だが、その温度は、体内の水分にとけている物質や、生物の能動的な働きのために、水の凝固温度からずれている。しかしおおづかみには、環境中の水が凍るかどうかとまとめて論じることができるかもしれない。上に「冬の温度」と書いたのはこのことなのだ。【[2016-06-28補足] 生物の分布を制約する条件としての「冬の温度」には、凍結のほかに、低温による化学反応速度の遅さという要因もあり、両者は必ずしも同時に現われるとは限らないが、条件を気温で表現する場合にはまざってしまうだろう。】

第二に、(これも水の相変化によるものだが) 降水の有無の境は、大気に原因をもち、不連続とみなすことができる。ただし長期にわたって降水量ゼロのところは、世界の砂漠のうちでもわずかしかない。季節を分けたうえで、その期間に降水量ゼロである(完全な乾季である)ところとそうでないところの境は意味をもちうるかもしれない。鈴木教授は、『風土の構造[読書メモ]の本に紹介されている若いころの仕事で、日本の毎日の降水量分布図で降水の有無の境界線をひき、たくさんの日についてその線が重なるところを気候区分の境界線と考えた。この方法は、冬の季節風が降水のおもな原因となっている地域を抽出するのには確かに有効だった。しかしそれ以外のことがらに有効な分析方法かどうかは疑わしいと思う。

第三に、実は必ずしも不連続ととらえる必要はないのだが、大気大循環の観点から世界の気候を論じる際に、「熱帯」と「中高緯度」[用語解説「低緯度・中緯度・高緯度、熱帯・温帯・寒帯」]を分けて論じたいことは多い。これはそれぞれ、「ハドレー(Hadley)循環」が主役である世界と、温帯低気圧が主役である世界なのだ。(教材ページ[大気の大循環][用語解説「大循環」]参照。) ただし、その境は、時点を限っても明確な線でひけるものではないし、時とともに移動するものだ。

中村・木村・内嶋(1986, 1996)には、気候区分図のひとつとして、北半球の夏と南半球の夏のそれぞれの時期にハドレー循環がしめる領域の広がりにもとづくものが示されている。その図を含む部分の執筆分担は地理学者の中村和郎教授だが、この本は地球物理学者の木村龍治教授、農業気象学者の内嶋善兵衛教授との共著であり、木村氏担当分にある大気大循環の話題との関連でこの定式化が選ばれたのだと思う。わたしは、この図をトレースして簡略化したものを町田ほか(2003)の分担部分にのせたが、その図(下書きのコピー)を[ここ]に置いた(注記が英語になっているが、斜線をかけたところは「北半球の夏にハドレー循環に覆われる領域」と「北半球の冬に...」である)。わたしはこの図の概念がもっともだと思っているが、ハドレー循環の広がりを自分で(納得できる定義を置いて)検討したわけではないので、この図の線の詳しい位置については自信がない。ともかく、わたしは、世界の気候をとらえる概念的枠組みとしてはこのようなものを使ってほしいと思っている。ただし「気候区分」という表現を使う必要はないと思う。

さて、いわゆるケッペンの気候区分は、「気候区分」と呼ぶのは適切ではないと思う。また、区分の境は数式で定義されているものの、データにあてはまるように決めた経験式にすぎないので、深い意味はない。20世紀初めという時点で、気候と植生の関係をさぐるという科学研究活動のたまたま最新の到達点だったのであり、今の時点でその結果を尊重する意義はとくに認められないのだ。しかし、この結果を得るまでの過程では、気象学と生態学(20世紀初めならばむしろ「植物学」というべきか)という別々の専門領域で知られたことを、地理的分布に注目する方法を使って関連づけ、知識体系を構築しようとする活動があったのだ。ケッペンの仕事は、完成品としてでなく、地理学研究のしかたの参考例として、意義があるのだと思う。

地理教育の中での気候の扱いについてのわたしの意見は次のようになる。

  • 気温、降水量などの数値をグラフや分布地図で定量的に見ることに慣れよう。
  • 「気候区分」という表現や概念は、初歩の段階では持ち出さないことにしよう。
  • 「熱帯」「温帯」などの表現を大まかにケッペンあるいはその流れをくむトレワーサ(Trewartha)などに従って使うのはかまわないが、その境界が明確な線あるいは数式で示されるという印象を与えないことにしよう。
  • 植生あるいは生態系を論じるところで、気候が植生を制約する要因のひとつであることを論じ、ケッペンにふれるならばその関係の解明に貢献したという科学史的文脈でふれよう。

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