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科学者が安全寄りのことを言っても全面不信にならないでほしい

【この記事はまだ書きなおす可能性があり、その際に当初の形を残すことを約束いたしません。】

東日本大震災以後たびたび、「科学」あるいは「科学技術」全体に対する否定的意見と、それに反発する科学者側の言いぶんとが対立している状況が見られる。これは困ったことだと思う。

原子力発電所の事故という事態になって、鈍い意味([前の記事]参照)で、「科学のありかたを反省する必要がある」というのはもっともだと思う。(ただし、これが「科学をなくせ」という意味でないことも明らかだ。事故に伴う課題の解決だけを考えても、科学的知識は必要だ。) しかし、社会の中で「科学者」というまとまりが自治的に意志決定できるしくみはない。それに近いものとして学術会議があるが、その会員の選ばれかたは代議制ではなくなっている。具体的に科学者・技術者の行動を変えさせたいのならば、(「科学者としての反省がたりない」などととがめても実効はなく)、相手をもう少し鋭くしぼって、専門分野別の学会などのまとまり、あるいは雇われている職務の性格(純粋科学、技術開発、設備建設、設備運用、医療など)のそれぞれに向けて述べてほしい。ただし、比較的長期の科学全体のありかたについては、科学全体の視野で考えて政策につなげるべきこともあると思う。

事故前、政府や電力会社などの体制は、原子力は安全だと宣伝した。その根拠づけや宣伝にかかわった科学者たちがいた。彼らのうちには、利害関係に支配されてうそをついた(自分が正しいと考える科学的知識に反することを言った)人もいるかもしれない。事故後も、体制の利害のために、起こった事態の危険性を意図的に小さめに述べた人もいるかもしれない。そういう人には倫理的責任、場合によっては法的責任を問わなければならないだろう。しかし彼らが言ったとおりに考えていたとすると、対策に向けては個人の責任よりもむしろ専門家共同体の構造を考えなければならないと思う。(わたしは「各専門分野の知識を持つがその専門家集団の利害をともにしない人をふやすべきだ」と考えている。まだそれを実現するための行動には至っておらず、意見を言っているという段階だが。)

また、危険性の見積もりがどうしても不確かさを伴う状況で、それを大きめに見積もることがいつも善で小さめに見積もることがいつも悪、というわけではない。現実の生活には複数の種類の危険がある。ひとつの種類の危険を回避することに精力を使いすぎて、ほかの種類の危険に対する備えがおろそかになるのはかえってよくない。[9月11日の記事]で述べたように、過大評価も過小評価も起こりうるので、どちら向きの修正も必要なのだ。

とくに、原子力事故後には、環境に出た放射性物質による放射線ひばく(外部ひばくと内部ひばくを含む)が警戒された。事故現場の作業者のひばくによる健康被害が出るおそれはなおあるが、周辺の住民の場合、ひばく量をおさえるための注意が効果をあげて、明確な健康被害は出ていないようだ。しかし、ひばく量をおさえるためには、環境放射線量を調べ、その多い場所に行くことを避けるなどの行動の変化が必要であり、それは身体的にも精神的にも負担を伴う。事故の責任を考えるうえでは、これも放射性物質を出してしまったことの帰結として合わせて考えることもできる。しかし被災地の住民の生活のうえでは、放射線ひばくとそれを防ぐための行動とは分けて考える必要があり、両者の間に競合があってその間でどのようにバランスを取るか考えなければならないこともある。

また、たとえば今後の原子力政策を考えるうえでは、実際に起きた事故だけでなく、なりゆきが少し違っていたら起きたかもしれないさらにひどい事態も考えるべきだ。しかしその議論は被災地の住民の生活への助言とは明確に分ける必要がある。少し細かく分けすぎかもしれないが、わたしは次の5つを区別するのがよいと思う([9月6日の記事]の中でついでに述べたのだがあらためて明示する)。

  1. 現実に起こっていること
  2. 近未来に有限の(無限小とみなせない)確率で起こりうること
  3. 近未来に創発的事態(事前に確率を想定するのがむずかしい事態)の実現があれば起こりうること
  4. 事故の過程が現実とわずかに違っていたら起こりえたこと
  5. ほぼ同様な設備の事故によって起こりうること

危険性を小さく見積もる発言を聞いて、安全宣伝ではないかと疑ってみることは正当だと思う。しかしいつも安全宣伝だと決めつけるのではなく、有用な科学的知見である可能性も考えて判断してほしいと思う。