macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

鋭い用語づかいと鈍い用語づかい

科学の中での議論を含むがそれに限らず、理屈をたてた議論をするときには、相手との間で用語の意味がだいたい一致していないと議論がすれちがう。現実世界で起こっていることの認識が一致していても、何がAであり何がBであるかの認識が一致していなければ、「AはBである」という文の真偽の判断が違う、ということがありうるのだ。しかし、多くの場合、用語の意味をあらかじめ明確に定義してから議論を始める、ということにはならない。議論の中で主張が一致しないときに、その理由の候補として、用語の意味が違う可能性が浮上してくる。自分の使いかたが正しいと信じきっている人が相手の使いかたがまちがいだと主張することがあるが、これはたいていうまくいかない。使いかたが違うことを納得したうえで、その場の議論での暫定的な用語づかいについて合意を得たほうがよい。

同じ用語に二つの意味づけがあって、一方の対象が他方の対象に含まれる場合に、「狭い意味」「広い意味」という表現がよく使われる。わたしも、これからも使うと思う。

ただし、「狭い意味」と「広い意味」が生じる状況のすべてではないが多くの場合に、議論のタイプの違いがあると思うようになった。仮に「鋭い議論」と「鈍い議論」と呼んでおく。

鋭い議論としては、たとえばAとBの間に因果関係があるという仮説を確かめたいと思っている場合があげられる。このとき、一見Aと似た特徴をもつものでも、Bと関連して出現しないものは、Aに含めないほうがよいかもしれないという判断が働き、Aの意味の広がりは狭く定義されがちだ。

鈍い議論としては、Xという大きなまとまりをA、B、C、...に分類して論じたいが、類の数をむやみに多くしたくないという場合があげられる。この場合、Aと似た特徴をもつものはAにまとめたいという判断が働き、Aの意味の広がりは広く定義されがちだ。

同じAについてこの両方があるとき、ここでは仮に「鋭い用語づかい」「鈍い用語づかい」という表現をしてみることにする。(「狭い意味」「広い意味」とほぼ同じことなのだが、まったく同じにはならない可能性がある。)

たとえば「帰納法」という用語を考えてみる。鋭い議論では、帰納法とは「『あるAはBである』という事実を表わす文を多数集めることによって『すべてのAはBである』を(論理的に)論証すること」をさすかもしれない。そのような論理は成り立たないので、この意味では「帰納法は存在しない」というのが正しい、ということになるだろう。しかし、鈍い議論では、帰納法とは「『あるAはBである』という事実を表わす文を多数集めることによって『すべてのAはBである』という文への(発言者の)信念を高めること」をさすかもしれない。論理ではなく現実の科学的認識が発展する過程の記述の問題とすれば、このような帰納法は多くの人が実際に使っている考えかたであり、「帰納法は現実にある」というのが正しい、ということになるだろう。

また、たまたまきょう話題になっているのを見たのだが、「素粒子」という用語がある。わたしが学生だった1970年代の教科書的文献の用語では、陽子や中性子素粒子だった。「クォーク」というものが話題になるとすれば仮説上の存在としてだった。しかし今の物理学の認識によれば、クォークがいちばん細かい構造で、陽子や中性子などの核子は複数のクォークで構成された構造だ。この場合に、鋭い議論をしようとすれば、「素粒子」という用語は、核子か、クォークか、どちらかだけに使い、他方には使ってはいけないことになるだろう。(現実には、クォーク素粒子とする物理学者と、核子素粒子としクォークを「基本粒子」とする物理学者に分かれるようだ。) 他方、物理学を大きく分類するような鈍い議論をする場合には、原子よりも細かい階層の粒子を扱う分野を、その内の階層は分けずに、「素粒子物理学」と呼びたくなると思う。

鋭い用語づかいと鈍い用語づかいは、どちらが正しくてどちらがまちがいというものではない。両方にそれぞれ役割があるのだ。