macroscope

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新成長戦略などと言っている場合ではない。脱成長戦略だ。

震災後の今こそ、長期的視野で国の政策の基本を見なおす機会だと思う。

何かの量の成長率が正の一定の値をとることが続くということは、何かの量が時間とともに指数関数的に大きくなっていくことになる。人間社会は物理的に有限の地球環境の中にあるので(宇宙に出ていくことは簡単でないので)、人間社会に関する物理量が長期にわたって成長しつづけることは不可能だ。

(これをマンガ的に表現したものとしてThe Impossible Hamster http://www.impossiblehamster.org/ がある。わたしから見ると、デフォルメされているのがちょっと残念だ。ものの大きさが感覚的にわかる画像を、きっちり1秒で2倍になるようにして30秒(つまり10億倍になるまで)続けたアニメーションを作ったらもっと印象的だと思う。この1秒は人間社会の数年に相当するわけだが。)

もちろん、経済に関する量は必ずしも物理量である必要はないので、それが成長を続けることは物理法則によって禁止されてはいない。

しかし、20世紀のアメリカ合衆国や日本の経験によれば、GDPの成長は有効に使われたエネルギーの量と強い関係を持っている(Ayres and Warr, [読書ノート])。エネルギー利用量の増加を伴わずにGDPを成長させようとするならば、経済のしくみを20世紀に経験したものと違うものに変えていく必要がある。

また、20世紀前半の化学者Soddyの考え(わたしはDalyの本[読書ノート]で知ったが、桂木健次氏や藤堂史明氏の論考もある)に従えば、物理量[注]の裏づけのある真の富の量には限りがある。貸し借りをくりかえすことによって仮想的な富はいくらでも成長できるが、同時に負債も成長している。1991年日本や2008年アメリカの不動産・金融バブルの崩壊からの反省として、限られた実体に基づく富の回転速度を上げすぎることは危険だと言えるのではないだろうか。

[注(2011-08-05)] 「物体」と書いてしまったが、いくつか文献を読んでみると、Soddyは富の基本はエネルギーだと考えていたらしい。(金本位制には反対していた。) ひとまずエネルギーを含めた意味で「物理量」と表現しておく。

政策の目標としての経済成長は、何かの目的に対する手段だったはずだ。この目的を、仮に人々の幸福と呼ぶことにする。(これがどんなものかの議論は今回は見送る。)

人々の幸福には、たぶん、子孫の世代が不幸にならないことが含まれるので、目標として、持続可能性をも意識するべきだ。

そして、化石燃料を使い続けることは持続可能でない。(その理由は化石燃料の枯渇の問題と温暖化問題を含む。)

化石燃料の消費を極力減らしながら人々が幸福な社会をめざすには、次の3点のうち原理的にはどれか1つを追求すればよいのだが、実際にはどれもむずかしいので、3点を並行して追求する必要があると思う。

  1. 経済量(たとえばGDP)を成長させなくても幸福を高める(むしろ不幸を減らす)ことができることを確かにする。
  2. 人間社会が扱う物質やエネルギーの量(とくにエネルギー資源利用量)の成長を、経済量の成長にとって必要でないものにする。
  3. 化石燃料消費に頼らずに、エネルギーが利用できるようにする。

まず第3点について考えてみる。原子力(核分裂)はあまりあてにならないことがわかった。もし選択的核反応ができて有害な物質が生じずにエネルギーを取り出せるならば人間が使えるエネルギー量は成長できるかもしれないが、たとえ重点的に研究しても達成できるという保証はない。そこで第3点の現実的政策は再生可能エネルギーにシフトすることだが、太陽光や風力は時間について間欠的で空間についても分散しているので利用のしくみがそれに適応するのに年月がかかる。

第2点はもちろん「省エネ」や「リサイクル」のような手段の改善も含むのだが、それだけでなく、幸福と持続可能性を追求する社会には何を生産する産業がどのくらいあったらよいのかという観点からの政策が必要だと思う。

そして第1点は、20世紀の政策決定の常識をくつがえすことになるが、まずは政治家が国会や選挙の場で堂々とこういう目標を主張することができる世の中にしないといけないと思う。