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今後の原子力工学: 選択的核反応の探求と、廃炉理工学

まえおき

わたしが給料をもらっている組織の仕事も、このブログ記事も、日本の科学技術研究に関する提案ではあるのだが、その質はだいぶ違っている。

専門組織の成果物として出す提案は、そのブランドをけがさない質のものでなければならず、そのためには、材料の検査や、どんな買い手がいるかの市場調査も含めて、何百人日かの頭脳労働をつぎこまなければならない。したがって、その件数をしぼりこまなければならない。

職員のひとりが提案のたねを思いついても、それを磨くために自分の労働をそそぎこむ覚悟ができない限り、組織からの提案の候補として組織内の公式の場に持ち出すのははばかられる。すると、(組織内の他の人が本気になってくれた場合のほかは)この組織からの提案として出ていく可能性はなさそうだ。個人的に捨てがたいが、思いつきにすぎないものは、個人として発表していくしかない。

望ましい特性をもった核反応を探索しよう
([5月4日の記事]の話題と重複するがもう一度考えて述べる。)

人間社会が文明生活をしていくためには、食料以外にもエネルギー資源を必要とする。化石燃料は、その量の限りが見えていることのほかに、地球温暖化という副作用があることがわかった。核エネルギーによれば、もし理想的にいけば(これはたとえばウラン鉱山のブルドーザーも原子力で作った電気で動かすような状況を想定したもので、現実とはだいぶ違うのだが)、温室効果気体を出さないでエネルギーを得ることができるはずだ。(廃熱問題はあり、ローカルには深刻な問題になりうるが、グローバルな効果に限ってみれば、エネルギー消費量が今の何百倍かになるまでは無視できるだろう。)

しかし、エネルギーを取り出す過程では物質も変化する。変化して得られた物質は、直接人間に対しても、また環境保全という面からも、無害であってほしい。もし有害なものができてしまっても、それが確実に隔離できるならば許せるかもしれない。とくに、有害性が放射能によるものならば、それは時間とともに減衰するので、それがじゅうぶん小さくなるまでの時間隔離できればよいとすることができる。

核分裂によるエネルギー産出装置が正常に運用されたあとに残る物質は、(ある原子番号範囲の)ほとんどあらゆる元素のさまざまな核種を含む。放射性核種のうちでも、半減期が非常に長いものは、物質量あたりの放射能はあまり大きくないので、簡単な隔離で害が防げそうだ。半減期が非常に短いものは、短時間だけ厳重に隔離しておけばよい(ただし隔離が破れる事故に備える必要がある)。むずかしいのは、半減期が数年から数万年の核種で、しかもその範囲で半減期の桁が違うものが混ざっていることだ。核種別に分ければ隔離はしやすくなるが、その際には化学的にさまざまな元素の混合物であることに注意が必要だ。現在の核燃料再処理技術では、放射性核種のうち、少なくとも希ガス元素(クリプトン、キセノンなど)を大気中に排出してしまうはずだ。トリチウム(水素3)も閉じこめきれないのではないだろうか。

このようなわけのわからない廃物を出す技術は、まだ実用段階にあると言うべきでないと思う。したがって、事故の際の危険性の件を別としても、ウランやプルトニウム核分裂による発電所の建設を、国は許可するべきではないと思う。(トリウム熔融塩炉については判断を保留する。)

しかし、わたしは、核反応によるエネルギーを利用することに原理的に反対するわけではない。

核融合はどうだろうか。いま研究されている核融合のほとんどは、物質を高温(約1億度)のプラズマにして反応させるものだ。この温度にたえる材料は存在しないので、プラズマを壁に接触しないように、反応に必要な時間だけ維持しなければならない。接触するのは反応後のプラズマだけだとしても、壁の材料の選択はむずかしい。そして、反応の際に出る中性子をはじめとする放射線が壁にあたることによってできる放射性核種が無視できない。廃物は、核分裂の場合に比べれば単純だが、さまざまな元素・さまざまな半減期の核種の混合物になるだろう。

ここでめざすべきなのは、まず、生じる核種が限定されるような核反応を見つけることだと思う。まず、半減期数年から数万年の放射性核種が含まれないようにすることだ。また、生成物を分離する処理のじゃまになる元素や、閉じ込めが困難な元素の放射性核種が含まれることも避けたい。エネルギーを取り出すという目的があるので、特定の元素だけにしぼりこむわけにはいかないと思うが、できるだけ少ない種類の元素ができるようにしたいのだ。

そして、その反応は、人間が管理できる材料物質がたえられる温度範囲内で起こるものでなければならないと思う。

そうすると、期待される反応の特性は、「常温核融合」という用語がさすものと近くなる。核融合である必要はないのだが、鉄より重い原子核の分裂よりも、鉄より軽い核からの融合のほうが、生じる核種の構成が単純な反応が見つかる可能性が高そうだ。ただし、「常温核融合」という用語は、まちがいだったと思われる実験例との連想が強くなってしまったので、避けたほうがよいと思う。仮に「選択的核反応」と呼んでおきたい。

選択的核反応を探索するためには、物理・化学にわたる基礎に立ちもどって、独創性の高い研究者に取り組んでもらう必要があると思う。しかしそれでも、選択的核反応が見つかるという保証はないし、反応が見つかってもそれを実用化できる道筋が見つかるという保証はない。一流の研究者が何十年にわたって取り組んだあげくに何も出てこなくても、その研究者を責めてはいけないのだ。また、社会は、エネルギー資源に関する政策を考える際に、この反応が実用化されることをあてこんではいけない。計画の本筋はこれをあてにしないでたて、別案としてこれが使えるとどう変わるかを考えるようにするべきだ。

社会に基礎さえ不確かな科学技術に投資するゆとりがあるかどうかが問題だが、わたしとしては、それがあることを望む。

ただし、研究の段階であまりに大量の資源の投入を必要とするものは、社会としては推進できないのは当然だろう。この意味で、プラズマ核融合のためにフランスに建設中のITERはひとつの限界を示しているのではないだろうか。そのさきに実用化の可能性があるとしても、それを実証する装置にこの実験装置よりも桁の大きい規模の資源を必要するならば、それをとりやめて、別の種類の研究開発にふりむけたほうがよいのではないかと思う。

廃炉の安全管理に工学・理学の知の結集を

これから新たな原子力発電所が作られないとしても、これまでに作られたものは残る。運用を終えたあと、解体して取り除くとすれば、その解体作業を安全にする必要があるし、原子炉や建物であった物質を長期間にわたって安全に保管する必要がある。(ゼロではないがじゅうぶん害が少なくなったものは、人から隔離しながら自然界にゆだねることもありうる。) もし解体しないとすれば、まるごと管理を続ける必要がある。

もし原子力開発が中止されるとしても、廃炉を安全に管理するために、原子力工学で蓄積された知見を散逸させず、これからもそれを利用できる人を確保しなければならない。

原子力工学は、理学である核物理や物性物理に基礎を置いてはいるが、基本的に人工物を制御する工学として発達してきたと思う。(固有名詞的に使われる「人工物工学」をさすつもりはない。) 対象物が許容される範囲の状態にあれば安全が確保されるように設計し、許容される範囲の状態になるように制御する努力を積み重ねてきたと思う。

しかし、事故が起きてしまったということは、設計で許容される範囲を超えた変化が起きたということでもある。事故後の廃炉は、廃炉計画で想定された廃炉とは違うものになっているのだ。そして、(強い放射性をもつ物質があって人が近づけず機械を入れるのも簡単でないので)現状を正確に測定することさえ困難であり、起きた変化を因果的に理解することはもっとむずかしい。事故は、人工物に起きたことなので純粋な自然現象ではないが、人だけでなく自然もかかわったプロセスであると言える。事故後の原子炉を扱うためには、それを理解しなければならず、そのときとる態度は、人工物を制御する工学と未知の自然物を理解しようとする理学との両方の要素を含んだものでなければならないだろう。

そして、安全に保つという目標を具体的に設定するためには、廃炉に含まれるさまざまな元素のさまざまな核種が、どのように環境中に広がる可能性があり、広がった場合に、生態系の物質循環(食物連鎖を含む)によってどのような生物に影響が及んでいくかを知る必要がある。それがわかってから管理を始めるのでは遅いので、新しい知見が得られたら管理方法を修正しうるような「順応型管理」を設計しなければならないだろう。

このように考えると、原子力工学は、廃炉の安全管理を主要課題のひとつとし、生態学を含む理学の要素をとりこんで再構成されるべきだと思う。幸い、同位体は環境科学の分野でも重要な手段として使われているので、共通の概念体系を構築するための手がかりはある。