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時間の「前」「まえ」「先」「さき」 (2)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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2024年 2月 17日ごろ、Twitter で、[時間の「前」「まえ」「先」「さき」 / (勧めたくない用語) 前近代 (2019-09-20)] の記事に書いたような話題がでてきた。

日本語をならっている外国人が、日本語の「前・後」の空間と時間についてのつかいかたがわかりにくいと言っていた。空間については、身体の前がわ・うしろ (後) がわ が基本だろう。時間については、一連の事件のうちの過去がわを「前」、未来がわを「後」という。この人は、時間を、自分が未来にむかっていくようにとらえているので、日本語の時間に関する「前・後」が、空間に関する「前・後」から自分の感覚で類推したものと逆に感じられてしまうらしい。

【この人の native 言語がなにかはわからなかったが、たぶん英語ではないのだろう。英語ならば、身体の前がわも fore、時間の過去がわも (before の) fore なので、日本語と同様だ。(「後」のほうはちがうことばをつかうけれども。) 】

しかし、時間を、人が時間軸上で過去にむかって立っているところからとらえるのならば、身体の前がわが時間の過去がわに対応するので、日本語の用語づかいはつじつまがあう。

ある人が、先近代の人びとは、時間が過去からながれてくるようにとらえていたから、その源にむかった姿勢でとらえていたのだ、という議論をしていた。わたしもそれはありうるとおもうが、必然的関係ではないとおもう。時間がながれてくる源に背をむけた姿勢でとらえることもできる。

別の人が、「見えるほうが前、見えないほうが後」とまとめていた。現代の日本語の「前・後」の意味をおぼえるための要約としては、うまいとおもう。しかし、(その人がそう言っていたわけではないが) もしこれが日本語の時間に関する「前・後」の意味の起源だといわれたとしたら、わたしはにわかには賛成できない。それとちがう起源を主張するわけではなく、単に感覚的に納得できないだけなのだが。

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空間と時間の「前・後」の関連のつけかたを もうひとつおもいついた。(たとえば) 四つ足の動物が歩いているとする。顔のあるほうが前で、足のうちでは、顔にちかいほうにあるのが前足、とおいほうにあるのが うしろ(後)足 だ (「あと (後) 足」ともいう)。この動物が (その動物にとっての) 前にむかってとおりすぎるのを、人がとまって見ているとする。この人にとっては、前足がとおったときのほうが時間のうえで前で、うしろ(後)足がとおったときのほうが あと(後)だ。これは動物にかぎることはなく、前面と後面のある物体の移動に共通だ。

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「前・後」のような用語の習慣は、言語ごとにちがっている可能性がある。日本語のばあいは、身体の「まえ、うしろ」はおそらく漢字がはいってくるまえからのことばだろうけれど、時間の「まえ、あと」は、漢語での「前、後」からの翻訳として導入された可能性があるとおもう。(それよりむかしの人びとが時間の前後を論じなかったとはおもえないが、まだ定型がなかった可能性や、むかしの表現がうしなわれた可能性があるとおもう。) もしそうならば、日本語の時間についての「前・後」の源をさぐる背景としては、古代日本語話者の文化ではなく、古代漢語話者の文化をかんがえるべきなのだろう。

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関連する話題のツイートによって、つぎのブログ記事を知った。

そのブログ記事には、論文がふたつ紹介されている。その論文がオンライン公開されているサイトを見に行って、「先」にかぎらず「前」などもふくめ、時間認識と空間認識をどう関係づけるかという問題にひろげて、関連するかもしれない論文をあわせてダウンロードした。わたしはまだ実質的に読むことができていないのだが、ひとまず書誌情報を書いておく。(読む時間をとれたら内容の議論を追加したい。)

なお、『Dynamis: ことばと文化』 と 『言語科学論集』はいずれも京都大学のなかで発行されていた雑誌 (紀要) で、PDFファイルが京都大学リポジトリにある。