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学びなおしとしての大学院をどう設計したらよいだろうか

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

【この記事は、ひとりの大学教員としての意見を書いています。組織を代表するものではありません。】

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大学の同僚が、大学院の「リカレント教育」を話題にしていた。だいたい、大学を出て社会に出てはたらいている人が学びなおすために大学院にはいる、ということだ。

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わたしはかねてから、いまどきの大学院は、もっと学びなおしに重点をおくべきだと思っている。しかし、学生側の事情によってどういう教育体制が望ましいかがちがうので、設計がむずかしいと思う。

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学士課程と修士課程をだいたい同じ教員構成でやっているところでは、修士課程の科目は学士課程の専門科目を履修ずみであることを想定してそれより高度なことをやるのがよいとされがちだ。しかし、大学で他の専門を学んできた人や、卒業してから年月がたっている人は、そのような科目についていけないことがあるだろう。それぞれの院生が修士論文になるような研究をするには、まず学士課程の科目に相当することを勉強する必要があるだろう。それを奨励するためには、学士課程の科目をとれば大学院の単位をとったと認定するような制度を整備するべきだと思う。院生各人ごとの、これまでの知識とこれからやりたいことによって、どの科目をとるべきかがちがってくる。そこを教員が判断して単位認定対象をきめる必要があると思う。

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社会人としてかなり高度なことができており、大学で学問的裏づけや展望をくわえれば、修士あるいは博士にふさわしいところまでいける人もいるだろう。そのうちには、図書館の利用や教員との毎週程度の顔合わせがあれば、自習で学べる人もいるだろう。そのような人にはあまり義務を負わせないで自由にやらせればよいだろう。

ただし図書館に新しい専門文献が必要で、とくに電子書籍・電子ジャーナルに院生自身がアクセスできる体制がほしい。大学が専門雑誌の電子版の定期購読をあまり多くできなければ、論文を個別に買うことができる予算をつけておく必要があるだろう。

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学問的体系を学びたいが自習ではなかなか進まない学生をうけいれるためには、修士レベルのその学問の基礎の体系的な授業を組む必要があるだろう。(大学院むけの科目に、「○○学特論」のようなものばかりでなく、「○○学マスター」のようなものを用意するのだ。) ただし、それはあきらかに教員の負担がふえることになるので、そのかわりに何をやめてもよいか、考えなくてはいけないと思う。

【わたしはそのような変更が成功したと思われる動きの周辺にいたことがある。ただしそれは、授業負担がふえてもよいと思う教員たちがいたから可能だった。1990年ごろ、東京大学 理学部の いわゆる「大学院重点化」のとき、地球物理コースは、修士課程の定員を、学部3・4年生の定員よりも多くした。(地震研究所や海洋研究所などの所属で、学部の授業は担当しないが大学院生の指導は担当する教員がおおぜいいたからだ。) すると、地球物理を学んでいない学士がおおぜい修士課程にはいってくる。それまで大学院の授業は「○○学特論」のようなものばかりだったが、ここで「地球物理学基礎論」のような授業が複数たてられ、当時の助教授や講師の人たちが内容を考えていた。(わたしは助手で、実習は担当するが講義科目は担当しないたちばであり、しかも東大を離れるつもりになっていたので、かかわっておらず、実際にどのような授業になったか、よく知らないのだが。なお、科目名に「基礎論」ということばがはいっていたというのもおぼろげな記憶だが、その意味は「科学基礎論」というばあいのような学問体系の根拠づけをすることではなく、各人が学問を実行するための基礎的能力をもたせるという意味である。)】