macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

人口変動の要因としての天候: 浜野 潔 (2001) 天保のききんを1年ごとにみる

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

- 1 -
人間社会の変動の要因、とくに人口の変動の要因として、気候の変動があげられることはよくあるが、気候と人口との関係をおいかけた研究成果はあまりないようだ。

わたしがこれまでに読んだ歴史人口学に関する文献はあまり多くないが、ひとつだけ、広域の気候・食料事情・人口の連関についての論考をみつけた。浜野(2001)で、速水ほか(2001)の本の第7章として出版されている。「天保のききん」のあった1830年代の日本について、1年ごとにみて、天候、食料事情、人口動態のあいだに因果関係を示唆するような相関をみつけている。しかも、歴史人口学の研究のおおくは、人口のくわしい情報源のつごうで、村落のような空間規模の現象をあつかっているのだが、これは日本全国をまとめて、あるいは「東北」「九州」などの地方でまとめてあつかっている。

ただし、どの部分のデータにもおおきな不確かさがある。ここに書かれたのは「予察的研究」なのだと思う。残念ながら、浜野さんは2013年12月に亡くなっている。そして、著者名検索でみつかる浜野さんの著作の題名と、浜野(2011)の本の目次をみたかぎりでは、2001年よりあとに気候と人口との関連を論じたものはないようだ。

読書メモのブログのほうに、この本全体の読書メモを出そうと思った(いまも思っている)のだが、そのまえに、この章についてのメモをここに出しておくことにする。

- 2 -
天候について、浜野さんは、多数の日記の天気記録を気候学者たちがまとめた「歴史天候データベース」(吉村, 1993)をつかっている。そして、その気候学者のひとりである Mikami (1996) が江戸(東京)についてしたのにならって、日本全国の地点それぞれで、夏(グレゴリオ暦7-8月)の降水日数をかぞえ、気温の指標とみなしている。1830-1840年のうちで、日本の広域での冷夏がおきたのは 1833, 1836, 1838[本の本文には1837とあるが誤植らしい]年で、そのうち1836年がとくにつよい冷夏だった。

しかし、浜野さんも疑問をしめしているのだが、東北地方では1836年夏の降水日数がすくなくて、この方法では気温が高いとみなされるのだが、ほかの証拠からは寒い夏だったと思われるのだ。気候学の日本地域についての基本的な知見として、梅雨期には、梅雨前線では降水が多いが、その南側だけでなく北側も降水が少ない。しかし、北側は気温が低い。その知見から、1836年は、7-8月にも梅雨のような状態がつづいていたと推測される。

また、浜野さんは、東北地方の3地点(弘前、盛岡、川西[山形県])の天候がかならずしも一致しないことも指摘している。これも気候学のたちばからは、東北地方の冷夏のうちには、太平洋側だけ低層雲や霧が多い「やませ」型と、日本海側もふくめて広域の冷夏とがあることが指摘できる。

ここには、歴史気候学の課題がある。晴れ・くもり・雨の天気日数の時空間分布を検討すれば、梅雨前線のような構造 (盛夏にこの名まえが適切かという問題もあるが) について、また「やませ」について、論じることができそうだ。ただし、「歴史天候データベース」では東北地方の地点数がすくないので、さらに天気が記録された資料をあつめて整理することも必要になる。

- 3 -
天候から人口への中間項のひとつとして、食料の供給がある。ふつうならば、収穫高の情報をつかうところだ。実際、「坪刈帳」などの資料をつかった研究もあるのだが、どうしてもローカルなデータになる。広域の食料事情の情報がほしかった浜野さんは、大坂堂島の米価 (もうすこしくわしくは「大坂に入荷した肥後米の年納相場」)をつかい、7年移動平均でわることによってトレンドをうちけした。米相場は、供給のほかに需要の変動にもよるし、ときには投機に左右されたり行政によって規制されたりするので、わたしは、それを食料供給の指標とみなすことには、かなりおおきな不確かさがあると思う。しかし、浜野さんは Feeney and Hamano (1990)の研究で、この指標の性格をよく検討しているらしい。

結果は、畿内でも関東でも冷夏だった 1833, 1836, 1838年(とくに1836年)には米価が高く、翌年には下がっていた。

ただし、別の資料をみると、流行病も重要だったようだ。冷夏による食料不足で流行病がひろまりやすくなったという連鎖もあると考えられるが、1836年の流行病は春からはじまっていた。

食料事情、流行病、それぞれについての不確かさをへらすには、何をしらべたらよいだろうか?

- 4 -
人口については、幕府による人口調査が、1828、1834、1840年のものがあるので、そのあいだの増減を地方別にみている。この情報も重要だと思うが、1年きざみの議論にはつかえない。

1年きざみの情報は、明治になってからの人口統計 (1886 (明治19)年の『日本帝国民籍戸口表』)によっている。そこから出生率を推定する。ただし、出生という事件の統計ではなく、調査時に生きている人についての統計なので、推定できるのは、出生率から乳児死亡率をひいたものであり、浜野さんはこの推定値をNCBRI (net crude birth rate index)とよんでいる。

NCBRIは、1837年におおきくおちこんでいる。また、1834年にも、地方別にみると、おちこみがみられる。3節の話につなげると、食料事情がわるい年のつぎの年に、出生率がへった、または乳児死亡率がふえた、という因果連関がありそうにみえる。ただし、1839年にはおちこんでいない。また、食料事情がよくなるとつぎの年に NCBRI が回復するとはかならずしもいえない。

人口動態についても、さらに検討が必要だろうと思う。ただし、日本の江戸時代の人口については、「人別帳」などにもとづいたとしても、出生率と乳児死亡率を分離できないことはやむをえないだろう。

文献,

  • Griffith Feeney & Kiyoshi Hamano, 1990: Rice price fluctuations and fertility in late Tokugawa Japan. Journal of Japan Studies, Vol. 6, No. 1. [わたしは直接見ていない]
  • 浜野 潔, 2001: 気候変動の歴史人口学 --天保の死亡危機をめぐって-- 。速水ほか (2001) 第7章, 173-192.
  • 浜野 潔, 2011: 歴史人口学で読む江戸日本 (歴史文化ライブラリー)。吉川弘文館。
  • 速水 融 [はやみ あきら]、鬼頭 宏、友部 謙一 編, 2001: 歴史人口学のフロンティア。東洋経済新報社, 330 pp. ISBN 4-492-37093-5.
  • Mikami Takehiko, 1996: Long term variations of summer temperatures in Tokyo since 1721: Geographical Reports of Tokyo Metropolitan University, No. 31, 157-165. http://hdl.handle.net/10748/3672
  • 吉村 稔, 1993: 古気候の復元と歴史天候データベース。地学雑誌, 102: 131-143. https://doi.org/10.5026/jgeography.102.2_131