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時代劇で話される言語には妥協が必要

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

わたしは自分ではテレビドラマや映画をあまり見ない。しかし、ネット上の会話で、ドラマが話題になっていると、関心をもつことがある。ドラマ自体には好意的ながら、登場人物の使うことばについて不満を述べているのを聞くことがある。地方の方言に関する不満のこともある。時代ものの場合は「その時代にはそういう表現をしなかったはずだ」という不満のことがある。「時代劇」と言えば江戸時代やそれよりも前を想定したものをさすことが多いと思うが、ここでいう「時代もの」の問題は明治・大正のころのものについても起こる。

ドラマはフィクションであり、そこで起こることが歴史上の事実のとおりでないのはあたりまえだ。そして、昔の話という設定のドラマのうちには、わざと時代をあいまいにしてしまっているものもあるが、そういうものについては、視聴者は、表現が時代に合わないという不満を感じないだろう。不満が生じるのは、実在の人物または実在の人物によく似せた人物が登場したり、歴史上の事実とされた事件がとりあげられたりしていて、その部分については現実の歴史に関する専門家の認識と矛盾しないような考証がされているような作品の場合だ。そういう作品だと、架空の人物の発言だったり、歴史記録がなく作者が仮想した場面であったりしても、当時の人が使ったはずのない用語が出てくると、正しくないと感じる人が出てくるのだ。

不満のうちには、簡単に対策でき、対策すべきものもあるだろう。現代の会話には、自動車を前提とした表現、野球を前提とした表現などがあるが、それを、自動車なり野球なりが出現する前の時代の場面で使うことは、「正しくない」と感じるのがもっともであり、それを使わない形に変える(あるいは自動車や野球が出現する前から使われていた表現である証拠を示す)ことを要求してもよいように思う。

しかし、このような不満を全般的に解消することは不可能だろうと思う。

まず、当時話されていたことばを正確に使った表現が可能とは限らない。当時の言語がじゅうぶん精密に復元推定されていたとしても、記録に残っている語彙には限りがあるので、作者が登場人物に話させたい概念に対する当時の用語がわからないこともあるだろう。

第二に、もし登場人物に当時のことばで話させることができたとすると、それはたぶん現代の視聴者が聞き取るのがむずかしいものになってしまうだろう。当時の言語を体験することが目的の番組ならば別だが、ドラマでは、視聴者に聞き取れることのほうが大事だから、せりふの言語は、現代の言語に近いものにする必要があるだろう。

歴史的表現と現代的表現を組み合わせて、視聴者の不満を小さくすることは、脚本家の(アドリブならば俳優の)職人的なわざの見せどころなのだろう。

ドラマについて述べてきたが、小説の中の会話のことばについても同様だと思う。