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気候科学者の政策に対するかかわりかたのわかりにくさとわたしの考え

9月27日(金)の晩に札幌で、北海道大学CoSTEPと科学技術社会論学会の共催によるシンポジウム「地球温暖化問題と科学コミュニケーション --哲学者・科学者・社会学者が闘論--」が予定されている。そのウェブサイト http://forum.hucc.hokudai.ac.jp/sympo/ http://costep.hucc.hokudai.ac.jp/sympo/ の中に用意された「ガイドブック」というページhttp://forum.hucc.hokudai.ac.jp/sympo/guidebook/ http://costep.hucc.hokudai.ac.jp/sympo/guidebook/ の中で、地球温暖化に対する、IPCC報告書の著者になった人を含む科学者たちの態度の例として、2つの公開メッセージがあげられている。

ひとつは、2007年2月2日づけ(IPCC第4次報告書のうち第1部会の要約が発表された時点)、鈴木基之氏をはじめ全部で15人による「気候の安定化に向けて直ちに行動を! --科学者からの国民への緊急メッセージ--」(http://www.env.go.jp/earth/ipcc/4th/message_main.html )で、環境省のIPCC第4次評価報告書に関するサイトに置かれている。中の構成は次のようになっている。

  1. IPCC第4次評価報告書 第1作業部会報告書に基づく主要な科学的な認識
  2. 人類と地球の共存
  3. 子どもたちの未来を守るため、今こそ行動を開始すべき時

もうひとつは、2010年9月30日づけ、石谷久氏をはじめ全部で10人(氏名の配列は五十音順)による「IPCC 報告の科学的知見について --IPCC関係科学者有志の見解--」(PDFファイル http://www.m-yamaguchi.jp/IPCC/IPCC.pdf ) で、有志のひとりの山口光恒氏のサイトに置かれている。中の構成は次のようになっており、第2節と第3節の議論は別々である。(しかし矛盾しているわけではない)。

  1. 本文の目的
  2. 報告書内容の信頼性について
  3. 報告書の知見の政策決定への利用

第2節では、IPCC報告書にかかわった科学者が不当なデータの操作をしたという疑惑について「オリジナルデータの公開等については問題があるものの、科学的内容については問題がないとの結論を得た」、IPCC報告書について指摘されたまちがいについて「これまで指摘された誤りは殆どが軽微なものであり、これによってIPCC がこれまでまとめた科学的知見の主要なものが揺るぐわけではない」としたうえで、「人為起源温室効果ガスの増加による気候変動は間違いなく進行しており、迅速に対応を進める必要がある」と述べている。
第3節では「現在G8の宣言などで述べられている2℃抑制とそのための削減案(たとえば2050年世界の温室効果ガス排出50%減)は、あくまでもIPCCの科学的知見を参考とした先進国主唱の政治的判断の一つである、とみるべきである。決して科学的要請というべきものではない。」と述べている。

ガイドブック」では2つのメッセージの態度が対照的なものとして紹介されている。

しかし、両方のメッセージに名をつらねている人がいる。その人の態度は矛盾していないか、という疑問はもっともだと思う。

わたしは、矛盾はないと考える。「温室効果気体排出抑制政策をとる必要があるが、+2℃以内という数値目標にこだわるべきでない」という政策的意見をもっていれば両者に賛同できる。

しかし、わかりにくい、ということはあらためて思う。2℃目標だけでなく、「温室効果気体排出抑制政策をとる必要がある」ということも、IPCC報告書自体に書かれている主張ではない。IPCCは政策決定にかかわる主張をする立場にないのだ(政策の選択肢を示すという意味での提言をすることはある)。ところが、2007年のメッセージは、節を分けてあるとはいえ、IPCC報告書が言っていることの説明から議論が続く形で書かれており、またIPCC報告書を紹介するサイトに置かれているので、IPCCの主張であるという印象を多くの人に与えてしまう。2010年のメッセージは、2℃目標についてはIPCCと切り離しているが、明示的に排出抑制とは言っていないものの、「対応を進める必要がある」ことはIPCCとつなげて述べてしまっている。

また、科学者と社会との関係で言えば、「温室効果気体排出抑制政策をとる必要がある」というのは、政策決定に対する意見であって、科学者がその職務として言うべき筋のことではないだろう。ただし、科学者も市民のひとりとして意見を言うことはできる。さらに、科学的知見を持っている市民として、他の人が気づかないが社会にとって重要な問題があれば、意見を言う社会的責任があるとも言えるかもしれない。

わかりにくい理由は、ひとつには、「温室効果気体排出抑制政策をとる必要がある」という主張が、IPCC報告書と発言者の暗黙の知識とから導かれているからだと思う。そのようなとき、その主張を「IPCC報告書から導かれた」ものとして述べてしまうのは、人の常なのだ。そこを分析して指摘することは別の人の発言としてされればよいと思う。ただしその指摘の論調が、初めから「主張は発言者の利害を動機とするものだ」と疑ったり、「事実と価値判断を混同する人は科学者としての能力あるいは倫理的資質が欠けている」というような非難を伴ったりするものでは、指摘された側が耳を傾けなくなるだろう。発言者と分析者の合意が得られる形で発言者の暗黙の前提が明示されれば、その前提が適切かどうかをも含めた問題について、広く第三者をまじえて考えることができる。【場合によっては、利害関係あるいは資質欠如の指摘のほうがあたっていることもあるかもしれない。いくらか公開の場で議論を進めた上で、分析者がそう判断した場合は、発言者をまじえた議論を打ち切って、分析者と第三者とで発言の品定めをすることに切りかえることもありうるだろう。】

もうひとつには、(同じ人の発言に対しても)科学者の立場と科学的知見をもった市民の立場とを区別する習慣ができていないからだと思う。

これからは、科学的知見を政策に反映させる道筋をもっと明確に作っていくべきだと思う。IPCC報告書は、政策決定者の問いに対する科学者の答えではあるのだが、問いと答えのサイクルが5年くらいの大きなまとまりになっている。もっと短い時間サイクルでの問答が必要だ。そのためには、科学者の一部の人に、狭い意味の科学研究よりもむしろ問いに答えることを主要な職務として働いてもらう必要があるだろう。また、科学者と政策決定者あるいは関心をもつ市民とをつなぐところに、(上に述べたように)専門家の発言の前提を分析し、専門家とのやりとりによってそれを顕在化させる仕事があり、それができる人を育成し配置するべきだと思う。(これはわたしの政策的意見である。学問的専門性に裏づけられたものとは言いがたいが、専門的経験や読書による暗黙の知識にもとづいている。)