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Google依存症の自覚

わたしは昔は、何かわからないことがあると本で調べたものだった。今でも、手近な本に書いてあることがわかっていればそれを見るし、本を買ってしまうこともあるが、百科事典類をひいてみようなどとは思わなくなってしまった。職場の図書室にあまり行かなくなったのは2005年ごろだったと思う。おもな理由は、学術雑誌の電子版がふえて必要な論文は自分の席からネットワークでとれるようになったことだ。それに加えて、世の中の検索エンジンが発達したことがある。

わたしは今では、何かわからないことがあると、ブラウザの検索窓にキーワードを打ちこんでしまう。ある会社の検索サービスが指定してあるが、それがGoogle検索エンジンを呼び出していることは明らかだ。

この方法の欠点は自覚しているつもりだ。

まず、これで見つかるのは、だれかが文書化してウェブサイトに置いたものに限られる。ウェブ(World Wide Web)が普及する前の文書はディジタル化されていないことが多い。(そのうち学術雑誌に関してはさかのぼったディジタル化が進んできた。ただし有料のものも多い。)

次に、ウェブに置かれた情報の質はさまざまであり、信頼できるように見えても実際はまちがっていることもある。

さらに、ウェブ上にあるたくさんのページのうちでどれが検索システムに収録されるか、またキーワードを含むページがたくさんあるときにどれが検索の上位に現われるかは、検索システム運営者(わたしの場合はGoogle社)が決めたアルゴリズムに依存する。

もしかするとアルゴリズムのほかに運営者の意志による取捨選択もかかっているかもしれない。(Google社が中国政府の要求した取捨選択をするよりは中国での営業をやめることを選んだことはよく知られているけれども、他方でいわゆる「Google八分」のうわさもある。企業活動としては取捨選択をする自由はあるはずだ。しかし利用者としては公平な検索をしてくれる企業を選びたい。)

わたしはこういう問題点をつい忘れてGoogleが出してくれるのが代表的な情報だと思ってしまうこともあるが、ときどき反省する。

ただし、少なくともひとつ注意していることがある。人によって見解が違うだろうと予想されるキーワードで初めて検索をかけるときは、検索結果の見出し表示を10ページくらいつまり100件くらいながめて、そのうち複数のウェブサイトを実際に見にいくようにしている。最初の1ページにある10件程度では、宣伝技術の点ではうまいが情報の中身が信頼できないものと、実質的に関係ないのだがたまたま検索にかかったものだけしかないことがある。とくに世の中で論争になる話題だと、一方の意見に付和雷同して実質的に同じメッセージばかりが上位にならぶことがあるのだ。(ブログ記事などが相互にリンクしていると、Googleが採用している、リンクされることを評価するしくみで上位になりやすい。これは付和雷同を奨励することになってしまっているように思う。)

もちろん、検索するたびに100件見るわけではない。ある人や機関自身のウェブサイトが見つかれば目的を達することもある。Wikipedia記事が見つかればじゅうぶんな場合もそうだ。(この場合は初めからWikipediaで検索すればよいのでGoogleを経由するのは余分だが。)

しかし、このような注意ですまない偏りがあることもわかっている。

わたしは日本語圏よりも英語圏のページを検索することが多い。ここで英語圏というのは、本来は、世界のウェブ上で、英語という言語を使って書かれたすべてのページを含むものだ。ところが実際に検索されて見つかるのは、国際機関のものを別とすると、イギリス(連合王国)、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドから発信されたものが圧倒的に多い。民族としてのアングロサクソンには限らないのだが、言語からみて英語ネイティブの人が圧倒的な国ばかりなのだ(カナダはフランス語もあるが)。わたしが行ったことのあるうちではフィリピンやマレーシア、行ったことのない大きなところではインドなどでは、公用語が複数あるが、多民族間の共通言語としては英語が使われることが多い。英語が母語の人も混ざっているだろう。英語のウェブページはたくさんあるはずだ。しかし、その国の固有名詞などを含めない限り、日本にいて英語で検索したのではなかなか見つかってこない。

Googleのようなページ評価のしくみだと、インターネットのうち早く発達した部分で相互にリンクしあうグループができてGoogleの高い評価を得ていると、遅れて発達した部分が追いつくのはむずかしいようになっているのだと思う。そのうえ、複数の言語を使う必要のある地域の英語での文章生産性は、英語だけを使う地域の生産性にかなわない。

英語が複数の公用語のひとつであるような国のウェブを展望することは、むずかしいと思う。

他方、まだ本気でためしていないのだが、他国ではあまり使われていない言語を国語とする国のウェブを展望することはできそうだ。(言語圏内の不公平はありうると思ってみるべきだが。) ただし、もちろんその言語の知識が必要だ。検索結果を見て(結論をとりちがえるおそれはあるが)何が話題かをつかむだけならば自動翻訳も使えるが、検索キーワードを入れることがむずかしい。学術用語ならばたいてい概念は万国共通で1対1の対応があるので自動翻訳に頼っても意味がありそうだが、日常用語の場合は、その言語圏の文化まで理解している必要があるかもしれない。

中にいる人の立場で考えても、英語が公用語のひとつである国の人々がウェブ検索すれば外の英語圏の情報に直接さらされるのに対して、独自の国語をもつ国の人々はウェブのその言語圏の部分で生活できる、というのは大きな違いではないだろうか。