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ガムランの集団技巧とピアノの個人技巧

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】
【これは個人的な覚え書きで、知識を提供する記事でも、意見を主張する記事でもありません。】

「揚琴」のことを考えているうちに思いだしたことだが、別の話題なので、別の記事にする。

大橋 力 (つとむ) さんが 2007年に『科学』 (岩波書店) に連載記事を書いていたことがあった。連載の内容の多くは、わたしにはあまりよくわからなかったのだが、脳のはたらきに関する、あまり科学的でない思弁のように思われた。しかし、インドネシアのガムラン音楽の演奏について、西洋音楽、そのうちでもピアノの演奏と比較して論じていた2回は、山城 祥二 の名で「芸能山城組」をひきいてバリ島の合唱「ケチャ」を日本で再現した大橋さんの専門的知見を反映した卓見だと思った。

思いだしたことをわたしのことばで書きとめておく。ガムラン音楽と近代西洋のピアノ音楽はいずれも、短い時間のあいだに多様な音をひびかせるという意味で複雑な音楽だ。しかし、その実現方法はちがう。ピアノでは、ひとりの演奏家が訓練によって多声部の音を出す。ガムランでは、多数の打楽器のくみあわせで音楽をつくる。木琴・鉄琴のなかまもあるが、とくに どら のなかまが重要だ。どら のたぐいはそれぞれ1つの高さの音をだすものだから、1人の人が打てる音の種類は多くないし、1個のどらをたたいてからつぎのどらをたたくまでの時間間隔もあまりみじかくできない。複雑な音列は、複数の人が交互にどらをたたくことによって実現される。ひとりひとりの演奏者には、それほどすばやい動作や複雑な記憶は要求されない。

ピアノのばあいは技能の高い個人だけが演奏を提供するがわになり、大部分の人は聞くだけになってしまう。ガムランのばあいはおおぜいが演奏者として参加することになる。楽器演奏の技能がそれほど高くない人でも参加できるし、参加する必要があるのだ。しかし、ガムランでは、他の演奏者とタイミングをあわせつづけなければならないし、しかも、同時に音を出すのではなく一定時間だけずらして音をだすという直感的にわかりにくいあわせかたをしなければならない。また、パートを練習しながらそのときには聞こえない合奏の完成形を想像することも必要だろう。集団として、共有の暗黙知と、それを各演奏者にみにつけさせる教育能力をもっている必要があるのだと思う。おおぜいが参加して成果をだす活動の例としては、特殊すぎるような気もする。

ピアノとガムランの対比は、文化の類型の対比になりうると思うけれど、西洋と東洋、あるいは西洋と非西洋というような単純なものではないと思う。西洋近代音楽でも、合奏、とくに指揮者のいない室内楽の合奏は、どちらかといえばガムランの類型に近いところがあると思う。東洋の音楽でも、たとえば直前の記事でのべた揚琴の独奏は、とちらかといえばピアノの類型に近いところがあると思う。

文献

  • 大橋 力, 2007a: [連載・脳のなかの有限と無限 第5回] 近現代の限界を超える〈本来指向表現戦略〉(その2)。科学, 77: 396-402 (2007年4月号).
  • 大橋 力, 2007b: [連載・脳のなかの有限と無限 第6回] 近現代の限界を超える〈本来指向表現戦略〉(その3)。 科学, 77: 687-693 (2007年7月号),.