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人名のローマ字表記のむずかしさ -- 『科学史事典』の索引をきっかけに

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

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2021年5月19日、新刊の『科学史事典』がとどいたので、別のブログに [読書メモ]を書いた。それに対して、その本の編集委員長の 斎藤 憲 さんが、その日のうちにコメントを書いてくださった。ところが、そのコメントを、ブログのソフトウェアに組みこまれていたスパムフィルターがスパムと誤判定してしまっていた。わたしは 28日にそれに気づいて、[『科学史事典』についての記事への斎藤憲さんからのコメント] という別記事をたてて紹介した。

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わたしが気づいた問題は、この事典の「人名索引」での日本人名のローマ字表記だった。(「日本人名」というあいまいな表現をするが、これは人の国籍による分類ではなく、日本語のなかでつけられた人名というつもりである。)

わたしが[2021-05-22の記事]でふれた「地球温暖化」の項目に出てくる真鍋 淑郎 さんの名まえが、索引項目になっているが、索引にはローマ字つづりがあって、Shukuro になっている。真鍋さんは論文などの著者名をいつも Syukuro としている。わたしが校正のとき送った索引語リストにも Syukuro と書いていた。索引の編集者がなおしたのだ。

ほかに、わたしが名まえを思いだせる、気象をふくむ地球物理関係の日本人名をしらべてみると、本人がつかった (と、わたしが認識している) つづりかたでなく、いずれもヘボン式となっていた。

  • 田中舘 愛橘 は、日本式のローマ字つづりかたの提唱者のひとりだから、日本式で Aikitu とつづっていたが、事典の索引では Aikitsu となっている。
  • 北尾 次郎 は Diro とつづっていた。「di」は日本式の「ヂ」であるが、「次」の音ならば、歴史的かなづかいによっても「ジ」で、日本式ならば zi、ヘボン式ならば ji になるはずだ。おそらく北尾は何かの標準にあわせたのではなく、ドイツ語の中でなるべく日本語に近い音にきこえるようなつづりかたをしたのだろう。(ドイツ語では zi はツィ、ji はイになってしまい、si は日本語のがわでシと区別できない。) 事典の索引では Jiro となっている。
  • 松山 基範 がローマ字つづりについてどんな意見をもっていたかは知らないが、古地磁気の逆転をしめした論文の著者名は Matuyama であり、その形で「松山逆磁極期」という学術用語に採用されている。ところがこの事典の索引では Matsuyama となっている。
  • 藤原 咲平 は Fujiwhara とつづっていた。これはヘボン式でも日本式でもない。本人の かな表記が「フヂ」か「フジ」かはわたしはまだ確認していないが、「ハラ」はたしかだ。しかしそれは歴史的かなづかいだから、現代かなづかいで「ワラ」か「ハラ」かという問題があり、多くの人が「ワラ」だと思ったが、ちかごろ「ハラ」が正しいという説も出ている。「whara」は両方の発音がありうることをしめしているのかもしれない。あるいは (藤原がそう主張したという話は知らないが) 「wha」 は、「ファ」のような音、ただし子音は f ではなく w の無声化したような音をさすのかもしれないと思う。事典の索引では Fujiwara となっている。「ワラ」の発音を採用してヘボン式表記したのだろう。

わたしはまだ索引にある日本人名を全部点検していない。(近いうちに、自分が知っている人名についてはしようと思っている。) これまで気づいたかぎりでは、人名索引の編集者が、日本人名のローマ字つづりはヘボン式に統一するという方針でだいたいとおしたようだ。(杉田 玄白 が (Gem- でなく) Genpaku なので「修正ヘボン式」というべきかもしれない。また、朝永 振一郎 については Shin-itiro / Shin'ichiro と 2種類しめしているが、前者はヘボン式と日本式がまざった形になっている。) しかし、索引ではローマ字のつづりかたをこのようにしたという ことわり書きが見あたらない。

この問題を指摘したとき、わたしは、ローマ字表記について、本人がつかったつづりかたで書くのがのぞましいと思っていた。また、斎藤さんによれば、「アルファベット表記は,私の記憶が正しければ,本人が使ったものを尊重する方針だったと思います」とのことだ。

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しかし、さらに考えてみると、「本人が使ったものを尊重する」という方針をつらぬくのもむずかしい。索引に入れられるべき人物が、自分の名まえをローマ字でつづったことがないばあいもあるだろう (とくに先近代の日本人名のばあいはよくあるだろう)。また、複数のつづりかたをしていて、どちらが主ときめにくいばあいもあるだろう。

わたし自身は、[日本語のローマ字つづりかたについての個人的覚え書き]の記事に書いたように、本人によるつづりかたがわからない (周囲からの推測もむずかしい) ばあいは、おもに第二次世界大戦よりまえに著作を出した人のばあいは日本式、戦後に著作を出した人のばあいはヘボン式と仮定する、としてみたことがある。ただしこれも、それぞれの時代の科学者の多数と思われるやりかたを少数側の人にもおしつけたことになり、人にすすめられる方法とは思っていない。

また考えてみると、江戸時代の蘭学者は、オランダ語にならったローマ字つづりをしただろう。そのつづりかた自体は科学史的な関心事になりうるが、その方式で書かれた名まえを、ヘボン式以後のつづりかたになじんだわれわれが、正しく読めるだろうか。読めないとしたら、索引項目にふさわしいだろうか。

この事典の人名索引には、かな表記はないから、漢字で書かれた人名については、ローマ字表記が「読み」、つまり、音声言語との関連づけをあたえる役もはたしている。そちらを重視するならば、ローマ字のつづりかたは、かな表記を基準として一定の方法で翻字するのが適切なのかもしれない。一定の方法として、わたしならば訓令式をえらぶけれども、事典の索引編集者がヘボン式をえらんだことは理解できる。ただし、その選択を明示してほしい。

日本人名の「読み」の文字表現としては、かな (ひらがな でも かたかな でもよい) で、現代かなづかいにしたがうのが、いちばんゆらぎが少ないだろう。もし、かな表記を追加するならば、「読み」をあたえる機能はそちらにまかせて、ローマ字表記は本人がつかったつづりかたを尊重するのがよい、となるだろう。

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なお、この事典の (本文中でも索引でも) 古代ギリシャ語の人名のラテン文字 (ローマ字) 表記については、本のはじめの「凡例」に方針が書かれている。編集委員長の斎藤さんの専門分野でもあり、明確なすじがとおっていると思う。

ラテン語形を基本とする。(たとえば、ギリシャ語で「-os」でおわる人名は、ラテン語化された「-us」の形で収録されている。) また、ラテン語形とちがった英語形がよくつかわれているばあいは「[英] 」として補足的にしめすことになっている。

科学史では、英語のほか、フランス語やイタリア語などの文献が参照されることもある。しかしラテン文字をつかう言語であるかぎりはラテン語形から派生した形がつかわれるから、ラテン語形のほうが相互参照に適しているのだろう。(なお、かたかな表記では、ラテン語形にあわせることはせず、ギリシャ文字からの翻字にもとづいて「-os」ならば「-オス」のような形で書かれている。)