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ツイッター言論界の殺伐化傾向とわたしの対処

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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この記事の本論からははずれるが、前おきとして、わたしの状況について書く。

ネットメディアのうちの、いわゆるSNSのうちでも、わたしは2012年以来、Twitter (ツイッター)を使い慣れている。

ほかのことをやる元気が出なくても、パソコンを起動してネットにつなぐ元気さえ出れば、Twitterを見てしまう。そして応答を書くこともある。まとまった仕事をする時間にならない、はんぱな時間でも、これはできる。しかし、へたをすると、まとまった仕事をするべきときもTwitterにかまけてしまいそうだ。注意しないといけない。(Twitterでわたしの発言を見ているかたには、わたしがTwitter上で元気のよいときの勢いがいつも出るわけではないことをご了解いただきたい。)

Facebookにも登録しているけれども、それは、Twitterやその他の情報源から「詳しくはFacebookを参照」としてあるときに見にいくだけだ。Facebookのわたしのアカウントにメッセージをいただいても無視してしまっている。

Twitterを使う気になってFacebookを使う気にならない理由を考えてみると、Facebookはその上のつきあいが現実の(顔を見せた)人間関係と密接につながっているような気がするのに対して、Twitterの読み書きは現実のつきあいと(実名明示の場合は完全に切り離されるわけではないけれども、ある程度)切り離した気分でできることだと思う。また、Twitterは1つの記事の字数が限られていて(不便ではあるが)軽い気分で読み書きできるが、Facebookでは長い記事が書けて(便利ではあるが)気が重くなる、ということも(わたしの場合)あるような気がする。

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次に述べるのは、Twitterの世界についてのわたしの主観的認識だ。客観的に調査したわけではないので、正確でない(偏っている)かもしれないがその評価もできていない。

Twitterに出てくるメッセージを見ていて、なげかわしいと思うことがある。ある人たち(Aさんたちとしよう)が、別の人たち(Xさんたちとする)について、敵対や軽蔑の態度で言及すると、そういう態度が持続しやすく、ますます強まることもありがちだ。

「敵対や軽蔑の態度で言及」のうちには、罵倒もある。「死ね」のような言動も、おそらく殺人の意志表明ではなく罵倒のようなものだろう。多くの人から悪いと評価されている人びと(典型例はナチス)と同一視する論評もある(冷静に、具体的にどういう面が似ているという論評をするのはよいと思うのだが)。笑いごとではすまない「人格否定」的(この表現はうまくないが暫定的に使う)な揶揄もある。

そういう言動はいろいろなメディアで(管理者がとりしまらないかぎり)現われるだろう。ただ、Twitterでは、たとえばAさんがXさんの言動を「許せない」とする発言をすると、Aさんと会話しているBさん、Cさん...が、それに同調して同じ態度をとりがちだと思う。また、Aさんたちは、Xさんだけでなく、Xさんと会話しているYさん、Zさん...にも同じ態度を向けがちだと思う。そして、いつもというわけではないが、Xさんたちのほうも、Aさんたちの態度を知ると、Aさんたちに敵対や軽蔑の態度を向けがちだと思う。

Twitterは、世界じゅうのTwitter利用者とつながれる豊かさをもっている。しかし、現実の利用者は、話題を共有する「クラスター」に分かれる。それ自体はあたりまえのことだと思う。しかし、何かのきっかけでクラスターどうしの敵対関係が生じると、溝が深まりつづけることが起こりがちで、それは困ったことだと思う。

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Twitterは、コミュニケーションの場として、特異というほどではないが、くせのある場だと思う。それには次のような複数の特徴があり、その組み合わせが、2節で述べたような困った状況の原因になっているのだろうと思う。

  • (1) (英語140字では不足するが) 日本語140字の長さでひとつの主張を述べることはできる。しかし前提条件や不確かさなどを含めて説明するには不足。
  • (2) 親しいなかまうちの会話と全世界向けの発信との区別がない。書き手が意図しなかったあいてに読まれるのは、よい面もあるが、なかまうちの前提を知らない人に誤解されたり、感情を刺激したり、書き手個人ではなく書き手が属する(と読み手が認識する)集団の主張として受け取られたりもする。
  • (3) フォロー、ブロック、ミュートなどのしくみをすなおに使うだけで(意図的に使えばさらに)、自分が賛同・共感することの多い人の発言を多く見ることになりやすい。そのうちに世の中を敵みかたに分けてとらえる人がいると、それにつられて同様なとらえかたをしがちになる。

このような特徴は、Twitterのよさの原因でもあるので、簡単に変えられるものではなさそうだ。

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わたしは、自分がかかわるコミュニケーションについて、次のようにこころがけようと思っている。(必ずできるとはかぎらないのだが。)

情報の出典をなるべく明示し、多数の要因がからむことの説明、不確かさの説明などもなるべく書く。字数が多くなるので、ブログあるいは直接HTMLで書くウェブページに置くことにして、Twitterのメッセージではそこへのリンクを示すようにする。

Twitterでもブログでも、罵倒などの敵意や軽蔑を含む表現を、自分では(たとえ内心そう思っていても)しないようにつとめる。逆に、賞賛も原則としてしない。(「よい」「まずい」という評価を述べることはありうる。それに賛否の感情をのせるのを避けるのだ。)

罵倒などを含むツイートをRT (= retweet)することも避ける。(同じ論点で罵倒などを含まないものがあればそちらをRTする。出典としてぜひ示したい発言が罵倒などをも含む場合は、RTでなくそれをリンクした自分のツイートで示す。)

わたしから見て許せない発言(罵倒などの表現に関するものも、内容に関するものも)をする人については、貴重な発言をもする人であるかによって分類する。許せない発言をして貴重な発言をしない人の言動は話題にとりあげない。許せない発言をすることもあるが貴重な発言もする人については、貴重な発言を慎重に選んでRTその他の形で紹介することがある。