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このブログの記事の性格 (3) 時事的問題を扱う態度

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

「このブログの記事の性格」の記事[その(1) 2017-05-17][その(2) 2017-06-18]の続き。

わたしが、時事的問題(事件)に関してブログで発言する場合には、なるべく、事実や規範(法律・条約など)の理解につとめ、また、対立するものを含む複数の観点・意見を知ったうえで、自分の意見を組み立てたい、と思っている。

しかし、ふつうは、その事件について、根掘り葉掘りの調査をするわけではない。日常に読んでいるメディアから受け身で得たことと、気まぐれに興味のあるところを追いかけて得たことに基づいている。

発信するのは徹底した調査に基づいた意見だけにするべきだ、という考えもあるが、そうすると、専門の話題しか書けなくなる。専門の話題も件数は少なくなる。

不完全な知識にもとづいて考えたことでも、多様な意見も世に出たほうがよいこともあるのではないか、とも思う。

わたしの時事的問題に関する意見の記事は、不完全な知識にもとづいて述べている。その問題に関する権威ではなく、一般個人のひとりの意見と思って受け取ってほしい。

ただ、その(2)の記事でも述べたように、わたしは、登場人物を非難したり賞賛したりすることは(内心思っていたとしても)避ける。なるべく感情を含まない用語で、「賛成する」「反対する」「よいと思う」「悪いと思う」などの主観的評価を述べることはある。(ある主張について「まったくだめだ」という評価を述べることはありうる。しかし、その主張をしている人が悪人だとか無能だとか言うことはやめようと思うのだ。)

わたしが時事的問題を扱うほとんどの場合、わたしが言いたいのは、事件そのものやその登場人物に対する評価や意見ではなく、その事件に触発されて考えた、その事件と同類とみなすことのできる多数のものごとに関する、意見だ。時事的事件は、やや一般化された議論に対する事例として使われていると思って読んでほしい。

また、わたしが意見や感想を書くのは、わたしが見た範囲でも複数の違ったとらえかたがあって、それぞれに多少は賛同できる面がある、しかし両方を認めてしまうと矛盾する、というような状況になることがらについてのことが多い。