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エセ科学(ニセ科学)批判と科学論との両立

2014年1月8日にわたしはTwitterに次のようなことを書いた。

ある主題に関する評論が出ると、ある人々は全面賛成であるかのような、ある人々は全面反対であるかのようなコメントを書く。その評論が話題になり続けると両グループは憎みあい続けることになりかねない。評価の違いは両グループの実質的意見の違いよりも評論のどこに注目するかの違いによるのではないか。

これはそのとき感じていたいくつかのできごとにあてはまるように一般的に書いたつもりだが、直接にこれを書くきっかけは、1月8日に朝日新聞に出た、朝日新聞社の高橋真理子氏の「(記者有論)エセ科学 見分けるための七つの基準」という評論をめぐるTwitter上の議論だった。わたしがよく見かける人々のうちに、この記事を「いいことを言っている」「自分もそう思う」といったコメントをつけて好意的に紹介する第1のグループと、たとえば「著者は科学がどういうものかについて無知だ」「そういう知識をもとに市民に何かを教えようというのは思い上がりだ」といった(そのほかもあるが)コメントをつけて怒りか嘲笑をこめて紹介する第2のグループが現われたのだ。第2のグループの怒りや嘲笑は第1のグループの人々にも向けられた。このままでは、両グループの人々の間の、感情の応酬でなく中身に立ち入った議論が不可能になるのではないかと心配になった。

記事の中核となるのは「科学とエセ科学の対比表」あるいは「だまされないための七つの判定基準」と呼ばれる次のようなリストだった。

「新しい証拠があれば喜んで考えを変える ⇔ 考えを変えない」
「同僚(同じ分野の研究者)同士で情け容赦のない評価をする ⇔ 同僚同士の評価はなし」
「すべての新発見を考慮に入れる ⇔ 都合の良い発見だけ選ぶ」
「批判を歓迎 ⇔ 批判を陰謀とみなす」
「証明可能な結果 ⇔ 再現性がない」
「限定された有用性を主張 ⇔ 幅広い有用性を主張」
「正確な測定 ⇔ おおよその測定」

これは「インドネシアの環境ジャーナリストが送ってくれた」ものだそうだが、高橋氏が賛同していることは文脈からわかる。高橋氏は「エセ科学」の例としては「イオンやプラズマ、波動や光合成細菌などなど」によって「こうすれば放射能を除去できる」という主張をあげている。なお「幅広い有用性を主張」というのはたとえば「何にでも効く」という主張にあたる。

高橋氏の主張に賛成する第1のグループは、以前から高橋氏があげる「エセ科学」の例に似たものを気にかけ、それを批判する発言を続けてきた人が多い。批判対象をさす用語は「ニセ科学」であったり「疑似科学」であったりする(ただしここでの「疑似科学」はフィクションや空想であることが明らかなものを除外した意味である)が、ひとまず高橋氏の用語に合わせておく。彼らが社会にとって有害だと思い活動をやめさせたいと思っている具体的な「エセ科学」の活動は「対比表」の右の列の特徴を持っていることが多いのだ[注1]。他方、彼らにとって「対比表」の左の列は、右の列と合わせて判断の軸を示す材料にすぎず、それが「科学」の特徴を的確に示しているかはあまり気にしていない。

  • [注1] 対比表の最後の行は、インドネシア人ジャーナリストが念頭においた特定の例ではよかったのかもしれないが、もっと一般的な判定基準としては不適切だとわたしは思う。厳密な意味で正確な測定は不可能だし、おおよその測定しかできなくても科学的な主張であることはあるのだ。わたしは、測定値を使う際に、その不確かさ(精度)をわきまえているかいないか、という軸をここに持ってくるのがよいと思う。

第2のグループの議論はさらにいくつかに分けられるようだ。

そのひとつ(a)は、「対比表」の左の列に注目し、科学はそういうものではない、したがって、科学が左の列のようなものだということを前提とした判断はまちがっている、というものだ。わたしは詳しく追いかけていないのだが、たとえば、「証明可能」という表現をことばどおりにとったうえで、Popperの科学哲学によれば科学の理論は反証可能であっても証明可能ではないという主張をした人がいたようだ。それに対して、左の列に対して否定的である点は共通なのだが、科学はPopperがいうほど単純ではないと言った人もいたようだ。

もうひとつ(b)は、人々の議論を科学とそうでないものに分けたうえで科学のほうがすぐれているという価値判断を前提に評価することに対する批判で、科学にはそのような特権的な地位はない、という主張だったと思う。

もし、高橋氏の提案が、世のすべての科学用語が出てくる言説を「科学」と「エセ科学」にしわけようとすることならば、(b)の考えに立てばそのようなくわだてがまちがっていると言えるだろうし、(a)の考えに立てばその判定基準を科学論の批判にたえるように構築しなおさなければならないと思う。しかしわたしはこの文章の趣旨はそういうものではないと思う。「エセ科学」として批判したい対象はいくつもあるのだが、世のすべての言説に比べれば小さな部分であり、少なくともそれに対する文脈に限っては、(対比表の左側に書かれたような一説の理想像ではなく)現在あるがままの科学の本流を対置することが有効なのだと思う。