macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

大正関東地震は予知されていたか

昨日(8月31日) 22時からのNHKテレビ「歴史秘話ヒストリア」は、地震を主題とした話だった。NHKがすでに放送した番組のために取材したものを、関東大震災の記念日を前に構成しなおしたものらしいが、防災を考えるうえで意義のある企画だったと思う。

ただし、題名(副題だったかもしれない)の「関東大震災を予知した地震学者 今村明恒」というのはまずかった。「地震予知」という用語を、たとえば気象庁のウェブページ「地震予知について」http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/faq/faq24.html でのような意味で使うことにするならば、大正の関東地震は予知されていなかったし、同様な地震を予知することは今でもできない。

ただし、用語の意味の広がりは人によって違う。9月1日の朝のNHKニュース中でも(7時30分ごろ)今村氏の業績の紹介があったが、そこで津村建四朗氏が、今村氏の仕事は「中長期的予知」であるという表現をしていた。(このインタビューは「歴史秘話」の中でも使われていたので、そこでもそういう発言があったかもしれないがわたしは聞き取れなかった。) その立場では気象庁のウェブページに書かれているのは「短期的予知」の話だということになる。この二つは全然違う、と書きかけたのだが、また考えてみると、どちらも将来に関する確率的推測にはちがいないので、同じ用語を使うこと自体はよいのかもしれない。しかし、確率を考える時間区間の長さが大きく違うので、区別はしてほしいと思う。

【リーグ戦のスポーツのニュースをよく見る人には、今シーズンの勝率を予測することと、きょうの試合の勝敗を予測することとの違いを想像してもらうとよいかもしれない。世の中にはスポーツに興味がない人や、スポーツに興味はあっても「勝率」などというものを考えない人もいるので、みんなにわかりやすい説明にはなかなかならないのだが。】

「歴史秘話」の話題がすべて「中長期的予知」ならば、ここでの「予知」の意味はこちらです、と言えばすんだだろう。ところが、最後のほうで余談的に、今の短期的予知につながる話もあった。1944年の東南海地震の前に、今村氏の示唆によって軍が水準測量をしていたのだ。それは今の短期的予知の材料となりうる地震前の地殻変動を示すものと考えられている。しかし、「予知」の意味の違いの説明がなかったうえに、この話題の示されかたが全体として簡単すぎたので、多くの視聴者は、この測量に今の専門家が意義を認めていることはわかっても、その意義の中身はわからなかったのではないかと思う。

大正の地震の前、今村助教授(助教授としては無給で他の学校の講師として収入を得ていたそうだが)は大森房吉教授とともに過去の地震の記録を編集した。それを検討して、今村氏は、関東ではおよそ百年に一度多くの死者を出す地震が起きていることに気づいた。その知見をもとに一般向けの雑誌「太陽」に、50年以内に東京に大地震の危険があると述べ、防災対策を呼びかけた。4か月後、新聞が「大地震襲来説」として大きく報道したが、そこには防災の話はなかった。今村氏の「中長期的予知」を「短期的予知」であるかのように読みまちがえたデマが広がり、外で夜を明かす人が出たなど、社会にまずいことが起きた。そこで大森氏が沈静化に乗り出した。ただしそれは今村氏の主張の否定の方向に行き過ぎてしまった。たとえば「当分東京付近に大地震はないと断言しうる」と言った。さわぎはおさまったが、防災対策は進まなかった。そして大地震が起こり、外国出張中だった大森氏は帰国して病の床で責任を感じると述べた。

今村氏の最初の雑誌記事の記述態度を知らないと判断がむずかしいが、新聞が大きく報道した段階での表現の変化に問題があったように思われる。大森氏のデマの沈静化のための発言が科学的に不正確だったこと自体はやむをえなかったと思う。その後に大森氏自身、今村氏あるいは別の科学者によって的確に修正が行なわれ、それが広く報道されればよかったのだ。

震災後、今村氏は災害現地調査をし、建築学者などとともに震災予防調査会の報告をまとめ、政府の復興事業に対して進言した。また、多数の雑誌、ラジオ、レコードなどで子どもを含む一般の人々に対して地震の知識とともに防災(火を消すこと、避難することなど)を呼びかけた。教科書に地震防災の教材を含めることを働きかけ、その結果、1937年に国語の国定教科書に「稲むらの火」(津波からの避難を誘導した人の話)がのった。

今村氏は過去に関東に続いて南海に地震が起きた例が複数あること、和歌山県地殻変動が見られることに注目して、南海地方に観測網を作ることを提案したが、政府は予算をつけなかった。今村氏は和歌山県に私財で観測所をたてた。しかしそれは戦争中に軍に接収されて機能を停止し、戦後再開できないうちに1946年の南海地震が起きてしまった。今村氏は失意のうちに翌年に亡くなった。ただし、室戸町長からの、防災教育のおかげて津波による死者を出さないですんだという感謝の手紙の写しが残っていた。

災害にかかわる科学的知見についての、市民へのコミュニケーションおよび行政・立法への助言について、いろいろと考えさせられるところがある。

軍が、静岡県では今村氏の示唆に即して水準測量をしたのに、和歌山県では今村氏の観測所の観測を引き継がなかった、というのが、同じ原則で動いていないような気がするのだが、大きな組織は細かい判断を部門ごとの判断にまかせており、部門の責任者によって地象観測に対する重みづけが違っていたということなのだろう。