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「きさらぎ」 と さぎの宮駅 と 「異次元」 と

【これはまったく個人的な随想です。2節だけ、気候の専門家としての考えがはいっていますが、なにかを主張するものではありません。】

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「きさらぎ駅」という都市伝説があるときいた。異次元の世界にまぎれこんでしまうというような話らしい。わたしはそのなかみをくわしく知りたいという意欲はわかない。

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標準的な日本語では、「きさらぎ」は旧暦 2月の別名とされている。また、着ものを着てさらに着ることであり、寒い季節であることをあらわしている、と説明されることがある。しかし、これが正しい語源だときまっているわけではないようだ。

気候の専門家として、これはちょっとおもしろい。日本でいう旧暦は、中国とは別に計算されるようになったが、構造は中国でつくられたものだ。その1月のはじめは、およそ立春のころであり、中国の伝統では立春から「春」とされている。その伝統にしたがえば旧暦2月はあきらかに「春」のうちだ。しかし日本ではまだ寒いのだ。気温の年変化をしらべてみると、中国の内陸部では大寒ごろがいちばん寒いのだが、日本の大部分の地点ではむしろ立春ごろが寒い。それにしても旧暦2月ならば、年々変動はあるけれど、平均的にはいちばん寒い時期をすぎている。もしかすると、「着てさらに着る」のは新暦 (グレゴリオ暦) の2月の形容として考えられたことなのだろうか?

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わたしは 子どものころ、たぶんそれが 2月をさすことを知るまえに、「きさらぎ」という文字列を見ていた。その場所は駅だった。だから、わたしは「きさらぎ」から駅を思いだす。

それは、1960年代の国鉄 (現在は JR) の東海道線の岡崎駅だった。当時、国鉄の急行がとまる駅だったし、路面電車 (のちにはバス) との乗りかえ駅でもあったのだが、そのホールは、「待合室」とよばれるにはむやみに広く感じられた。それより10年ぐらいまえの需要に応じた待合室で、利用者がへる傾向にあったのだろう。その壁にあった看板や展示物も、古ぼけたものがおおかったと記憶している。

「きさらぎ」という文字列は岡崎でつくられていた菓子のなまえだった。「五万石」(ごまんごく) とならべて書かれていたと思う。いまネット検索してみると「五万石」はいまも売られているが「きさらぎ」は売られていない。別々の店がつくっていた菓子だが、せんべいのたぐいで、似た感じのものだったようだ。駅には、別々の店がそれぞれ出した看板がならんでいたのか、あるいは商工会による地元名産品の展示だったのだろうか。わたしは「きさらぎ」を食べたことがあるかもしれないが、その記憶はさだかではない。わたしの記憶にある「きさらぎ」は、駅に書かれていた文字列だ。ただし、駅名ではない。

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「きさらぎ駅」のモデルというほどでもないがヒントになったのが、遠州鉄道の「さぎの宮」駅だときいた。遠州鉄道の会社自体がそれをとりあげて、駅の看板を「きさらぎ」と書きかえるイベントをやったことがあるそうだ。

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さぎの宮駅ならば、おりたことは 1回ぐらいしかないが、そこをとおる電車にのったことは千回ぐらいある。1970年代の前半、わたしは遠州鉄道で通学していた。

そのはじめのころは、その鉄道の電車には急行と各駅停車があった。急行 新浜松行きで、西ヶ崎にくると、「積志 (せきし)、新村 (しんむら)、さぎの宮にはとまりません」というアナウンスがはいるのだった。その駅名は、停車するが自分がのりおりしない駅名よりもよく記憶にのこった。路線は単線で、新村と さぎの宮は、線路もホーム (プラットフォーム) もひとつだけの駅だった。

そのうちに、新村・さぎの宮間で駅の工事がはじまった。それが さぎの宮駅になり、新村駅は廃止された。

いま思うと、このときできた さぎの宮駅は、ある意味で、異次元の駅だった。

当時、国鉄 二俣線 (いまは天竜浜名湖鉄道) との乗りかえ駅の西鹿島 (にしかじま) を別とすると、 遠州鉄道のどの駅でも、人が線路をよこぎるのは、平面交差のふみきりだった。ちょうど、ふみきりにはかならず警報機をつけることという規則がきびしくなったところだったので、電車がホームにとまっているあいだ、大きな音がなりつづけていた。駅の職員にとってはひどい労働条件だったと思う (別の業種のわたしの父親がつとめていた工場内の騒音もひどいものだったが)。

ところが、さぎの宮駅は、島ホームに人が出入りするところは地下道になっていた。人がうごく空間の次元が 2次元から 3次元にふえたのだ。

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列車交換ができる駅がふえたのだから、ダイヤ改正があるにちがいない、と、通学していた生徒は思った。実際あったのだけれど、それは予想をはるかにうわまわる大改革だった。いまならば「異次元のダイヤ」と形容するかもしれない。

それまで、その路線の昼間の電車の間隔はだいたい15分だったのだけれど、半分は急行だったから、急行のとまらない駅にとっては、30分間隔だった。

新ダイヤでは、急行をやめてしまい、朝から晩まで同じ時間間隔で電車をはしらせた。当初の時刻表はちょっと奇妙で、前の電車の時刻とくらべて、分の1のくらいが1つふえたりふえなかったりした。時間間隔が、10+(1/3) 分 か 10+(2/3) 分 かのどちらかだったのだ。このダイヤはまもるのがむずかしかったようで、11分間隔におちついた。ある駅のある時間帯の発車時刻が「00 11 22 33 44 55」ならばつぎの1時間は「06 17 28 39 50」になるのだった。(いまは12分間隔になっている。発車時刻が毎時おなじなのでわかりやすい。)

いつどの駅に行っても待ち時間は11分以内になった。急行がとまらなかった駅の利用者はもちろん、急行がとまっていた駅の利用者にとっても、むしろ便利になった。電車と並行していた道路は交通渋滞がちだったから、バスやタクシーから電車にうつった人もおおかったとおもう。単線でもここまでできる、というのがおどろきだった。ただし、そのためには列車交換ができる駅が適切な距離間隔で存在しなければならず、この さぎの宮駅 が必要だったのだ。

(わたしにとっては、電車の時刻表をしらべずに来た電車にのるくせがついてしまい、そうでない路線で ときどき失敗する (このブログに書いたがリンクはしない)、という副作用があったが。)