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もうひとつの「国語元年」

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】
--------- まえおき ----------
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わたしは戯曲や小説の創作をしない。ひとに見せられるような作品をつくる能力はないと思っている。しかし、戯曲か小説になるかもしれない設定を思いつくことはある。ときたま、ものがたりの断片を思いついて書きとめておきたくなることもある。

- 2 -
わたしは元号(年号)の制度は廃止したほうがよいと思っている。しかし、制度が続くかぎりは使う必要が生じるから、新元号のニュースは気にかけた。新元号の出典が万葉集だと聞いて、まえに思いついたことを思いだした。

- 3 -
日本語がいまのようなものになるまでの歴史のなかで、万葉集が重要なやくわりをしたことは、たしかだろう。

そこで、わたしは、万葉集が完成したとき、編集にたずさわった人が、その仕事をふりかえる、独白か、対談の形で、「自分たちは、日本の国民がつかう言語をつくることに、このように貢献したのだ」とのべるような、戯曲か小説があるとよい、と 思ったのだ。

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それと関連して「国語元年」ということばに思いあたった。

調べてみると、井上ひさし による戯曲の題名だ。1985年にテレビドラマが放送され、1986年に本が出版されている。わたしはそのドラマや演劇を見たことも本を読んだこともなく、くわしい内容は知らない。明治のはじめに近代日本語がつくられる過程で、方言と共通語(標準語)との関係が問題になる話だ、ぐらいは知った。

  • [注] 「国」と「國」とは同じ字の字体のちがいだと認識しており、「国」で代表させている。

わたしが万葉集の完成という設定を思いついたのと、「国語元年」ということばを知ったのと、どちらがさきかはおぼえていないが、いつからか、わたしは「国語元年」でこの設定を思いおこすようになっていた。しかし、設定があるだけで、ものがたりの内容はなかった。

- 5 -
今回の元号の出典としてあげられたのが、万葉集のうちでも、大宰府の長官をしていた大伴旅人のもとで梅の花をみる宴会に集まったみんなが歌をつくったことの説明文だ、と知って、創作と言えるかどうかわからない空想が、だいぶすすんだ。

架空の人物を登場させ、歴史に解釈をくわえたが、歴史を変えることはしなかったつもりだ。

- 6 -
ものがたりを文章にするにあたって、わたしはときどき意識的に、むかしにはあるはずのない現代語をつかう。
ここでは、たとえば「編集委員長」だ。地の文が現代語なのだから、ものごとの名まえも、もし現代ならば言いそうな表現がまざってよいと思う。

---------- フィクション ----------
『万葉集』 全15巻が完成した。編集委員長の大伴家持さんのところで、祝賀会があり、つづいてなかまうちの反省会があった。

わたしは、家持さんよりも早くから、この仕事にかかわってきた。編集委員としては、東歌[あずまうた]の編集を担当した。そのまえに、日本語を漢字であらわすやりかたの手本をつくる仕事もした。わたしの本業は行政官だった。ただし、規定どおりのことをするのではなく、新しい試みをする役だった。わたしは国の基礎をしっかりさせるための仕事をして、その過程で、万葉集にも貢献したのだ。

わたしは「呉人[くれひと]」とよばれてきた。これは個人名ではなく、同族で共有された名まえだ。先祖が中国南部の、むかし「呉[ご]」の国だったところから来たからだ。わたしの先祖は、中国の南朝の陳王朝のもとに住んでいて、陳が隋にほろぼされるとき、のがれて来て、日本に帰化した。朝廷から、漢語の能力をいかして外交の働きをしてほしいと要請されたのだが、隋とかかわることは固辞しつづけ、隋が唐にかわってから、官僚として働くようになった。中国南部からきた呉人の一族は、呉音の漢語を話す。仏教経典を読むときなど、呉音も役にたつことがある。しかし、外交では唐の標準語である漢音の漢語をつかわないといけないし、日本の官庁で働くためには、やまとのことばをつかわなければいけない。われわれ一族は、三つの言語を使いわける能力をきたえてきた。

わたしは若いころから、役所に勤務して、漢文の文書を筆写したり、日本の官僚の作文をなおしたりする仕事をした。そのうちに、帝のおそばにとりたてられた。当時の帝は、日高[ひたか]の姫、元正天皇だ。かずかずの公文書が、帝のことばとして発表される。帝は、それが正しい漢文になっているか、確認しておきたかったので、いわば辞書として、わたしをお使いになった。こまごましたことでたびたび呼び出すのには、老師よりも若者がよいと判断されたのだろう。

帝が律令の編纂をお命じになった。のちにいう「養老律令」だ。もちろんおおぜいの官僚が分担してする仕事だが、帝ご自身が文章を確認したいとおっしゃることも多かったので、わたしの仕事もふえた。そのうちに、律令の担当者から相談を受けた。漢文であっても、日本のことばの単語をまぜる必要があるばあいがある。それをどう書けば、まぎれないですむか。発音をつたえる場合と、意味に対応する漢字をあてる場合の両方について、いっしょに考えることになった。

律令は漢文で書かれるが、それが執行される現場で話されることばは漢語ではない。国司は、漢文をやまとのことばで解釈する訓練は受けている。しかし、各地の住民のことばは、やまとのことばとも、だいぶちがう。もし、ひとつの「国」のうちでは同じことばが通じるのならば、国司のほうがそのことばを覚えればよいだろう。国のなかでもことばのちがいが大きいときはどうするか。帝も、わたしが言うまでもなく、そのような問題の存在はごぞんじだったが、答えの案がなく、なやんでおられた。

わたしは、「言語事情の現地調査をしたい。そのために、遠方の国の国司(もちろん国守ではなくその部下)になりたい。ただし、毎年ちがうところに異動させてほしい。」と申し出た。異例だったが、実際にそのような辞令がくだされた。

そして、わたしが九州のある国の国司だったとき、大宰府の長官の大伴旅人さんから九州の全部の国の国司に呼び出しがかかった。会議の議題に言語問題がふくまれていたから、わたしは当然出席することになった。各国それぞれの現状を出しあったが、解決案はなかなか出なかった。

旅人さんは会議を梅の花がさく季節に開こうと思った。みんなで花を見て、歌をうたって楽しみたかったのだ。実際の日程は立春のころになって、梅は満開ではなかったがいくらかさいていた。そのもとで、ひとりひとり歌をつくってみよう、それをみんなでうたってみようということになった。

こうなると、わたしには仕事がある。元正上皇が、日本でつくられた歌を、なるべくすべて集めたいとお考えになった。それで、わたしには、歌がつくられたら記録せよという指令がくだされていたのだ。旅人さんも指令をもらっているはずだから、だれか記録してくれと言うだろう。当時のわたしには意義がわからない仕事だったが、恩義のある上皇のお達しには従わないわけにいかない。わたしは記録係をまじめにやった。自分が歌をつくるひまはなかった。(わたしのへたな歌が記録にのこらなくてよかったという気もする。)

しかし、気にいった歌をうたいつづけている同僚たちのようすを見ているうちに、ここに懸案への答えがあるかもしれないと思った。

任国に帰って、地方役人の会議のあいまに娯楽がほしくなったとき、やまとのことばで歌をうたってみよう、と呼びかけた。次のときには、やまとのことばで歌をつくってみよう、と呼びかけた。ふだん地元のことばしか話さない人も、歌ではやまとのことばを使う人がふえてきた。

東国に転任して、あちこちでそのようなことをやった。万葉集には「東歌[あずまうた]」として貢献できた。賛同してくれた軍人が「防人歌[さきもりうた]」を編集してくれた。しかし、このようにしてわたしがとりくんだ正面の課題は、歌でも文芸でもなく、この国が、いなかに行っても同じことばが通じる国にすることだったのだ。日本のことば、日本語、と言ってもよいだろう。

ただし、この日本語は、やまとのことば そのものではない。「東歌」のことばは、東国の人がふだん話していることばではなく、彼らが努力してやまとのことばで歌ってくれた結果なのだが、やまとの人とはちがう発音になっているところがある。わたしはそれをやまとの発音になおさないで記録した。これを、どうか、東国の人は おとっているという評価につなげないでほしい。実は、東国にかぎらず、日本各地の人が話している日本語の発音は、同じではないのだ。やまとの人は、8つの母音を区別する。万葉集で、日本語の音を漢字で書くときには、それを区別して書くようにした。しかし、東国にかぎらず、やまと以外の地方の人は、その全部を区別してはいない。次の世代の人が日本語を書くとき、文字の書きわけは、万葉集とはちがうものになるにちがいない。