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入学試験問題について思うむずかしさ (2) いわゆる「ムーミン問題」をめぐって

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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[その(1)]の総論に対する各論のひとつ。

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2018年1月の大学入試センター試験の「地理B」の第5問の問題が不適切ではないかという議論があった。

Twitterで話題になったことについては、togetterにTorusa (S.Matsumoto, @zvq04241)さんによるまとめ「ムーミン 地理B センター試験」があるが、量が多い。

そのうち地球惑星科学教育の研究グループ(新聞報道の表現では「日本地球惑星科学連合の有志」)から大学入試センターへの要望書に関する Takayuki Ogata (@s15taka)さんによる1月20日の一連のツイートだけをまとめたTwitterの「モーメント」[地球惑星科学教育の研究グループからの「ムーミン問題」に関する要望書の要約]をつくった。この要望書には賛同できると思った。ここにはくりかえさないので、モーメントのほうを見ていただきたい。

なお、大阪大学外国語学部スウェーデン語専攻のページ http://www.sfs.osaka-u.ac.jp/user/swedish/ に、「平成30年度大学入試センター試験 地理歴史(地理B)第5問 問4への見解」(平成30年1月15日; 平成30年1月18日一部修正)がある。スウェーデン語教育の専門家(研究者としての専門は語学にかぎらず人文・社会のいろいろな分野だが)としてのしっかりした指摘だと思う。大まかな論点は、地球惑星科学教育のグループの要望書の言語関係の論点と同様なものだとわたしは理解した。

わたしは、この試験問題について、自分でくわしく検討したわけではないが、このような意見を見て、この試験問題は失敗だった、という認識に至っている。ただし、問題を無効として(たとえば)全員正解扱いすべきなのか、問題はやはり有効として出題者が想定していた正解を正解として採点するべきなのか、それ以外のやりかたがありうるか、については、わたしの意見はまとまらない。

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この試験問題には、あきらかな失敗が、2つあったと思う。

第1は、材料のうちにフィクションを含め、その「舞台」(作品中でものごとが起こる場所)を話題にしたことだ。フィクションであっても、その「舞台」が実在の地域であることが明示されていて、実際のその地域の特徴が描写されているのならば、その地域の特徴を示す話題として扱えるかもしれない。あるいは、作品に、作者が生活した地域の文化が反映されているのならば、その地域の文化の実例として使えるかもしれない。しかし、作品の「舞台」は作者が生活した地域と同じとはかぎらない。架空の場所の場合もある。「ムーミン」の「舞台」は「ムーミン谷」であり、実在する場所の名まえを変えただけでもないらしい。作者が生活した地域であるフィンランドと似ているかもしれないが、活火山があることなどのちがいもある。出題者はこれの「舞台」がフィンランドだというのを正解にしたかったらしいが、それは無理のある出題だった。

Vicke Viking」(スウェーデン語の原作でも英語版でもこの題名なのでこう書いておく)でノルウェーを選ばせたのもまずかった。その「舞台」はかつてのいわゆるVikingの活動域にちがいないが、それは今の国境でくぎられておらず、少なくとも、ノルウェー、スウェーデン、フィンランド、デンマーク、アイスランドにわたる。しかも、Vicke Viking の原作はスウェーデンで書かれており、(少なくとも部分的には)スウェーデンのある地方が「舞台」になっているそうだ。

世界地理のうちの文化の要素の例として、芸術作品や娯楽作品をとりあげることは、地理の授業や読みもので話題として扱うのならばよいが、試験問題にして正しい答えとまちがった答えを評価するのには向かないと思う。

出題者に好意的に考えれば、地誌[下の注参照]は多様な要素からなることを反映した問題にしようとして、不得意分野にいどんだ結果、勇み足になってしまったのだと思う。(「ニルスのふしぎな旅」は、スウェーデンで、子どもへの地理知識普及の意図をもって委嘱された作品だそうなので、もしかすると出題者はそれについてはよく知っていて、得意分野のつもりでほかの子ども向けフィクションに話題をひろげてしまったのかもしれない、とも想像する。)

[その(1)]の4節で書いたことにつなげると、地誌の問題は、地理学のなかの分野横断的であるべき、また一般社会になじみのある話題ともつなげるべき、という価値観が、正しい問題を出すべきという価値観よりも優先されてしまって、まずい結果を招いてしまったのではないか、と思う。

(なお、地理の問題で、架空の世界を使うことがないわけではない。(地理教育の用語でいう)「系統地理」[注]の問題として、架空の世界をつくって、与えられた条件から、大陸上の気候の分布とか、都市の周辺の土地利用の分布とかがどうなるはずであるか答えさせる問題はありうる。しかし「地誌」の試験問題にはなりそうもない。)

  • [注] 地理教育で、材料をどうまとめるかの態度として、大きく「地誌」と「系統地理」がある。わたしは明確な定義を知らないが自分なりの理解で説明する。「地誌」は対象地域を指定して、その地域で生じている自然(地形、気候、...)や人間社会(産業、文化、...)の多数の現象の類をいっしょに扱う。「系統地理」は現象の類を指定して、それが多数の地域にわたってどのように生じるかを見る。(まったく別の文脈で「系統地理」が「(生物などの)系統が地球上でどう分布するか」を意味することがありうるが、ここではそうではない。)

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第2の失敗は、フィンランド語と「ムーミン」とを結びつけようとしたことだ。出題者は、どちらもフィンランドという国家に関連するものと見たにちがいない。しかしフィンランドでは、スウェーデン語もフィンランド語とともに公用語なのだ。そして、実は、ムーミンの原作(本)はスウェーデン語で書かれた。受験者でそれを知っている人は少なかっただろう (わたしも今回話題になってはじめて知った)。それにしても、正しい知識をもっている人がかえってまごつくような問題はまずい。
ムーミンを別にすれば、この試験問題で言語をとりあげ、北ヨーロッパの言語のうちでフィンランド語が他のものと類似性が低いことを問題にしたのは、わりあいよい出題だったと、わたしは思う。

言語は地誌の基本的な要素だ。ほんとうは「民族」のほうが基本なのだと思う。しかし民族をどう規定するかについてはさまざまな考えがあり、そのどれを選ぶかには政治的価値判断もからむから、民族について正解が定まる問題をつくるのはむずかしいだろう。民族の代わりと考えるにしても別ものと考えるにしても、言語を共有する集団(「言語共同体」)をとりあげたほうがよい。これにも、方言とするか別々の言語とするかなどの問題はあるものの、専門家間の認識のくいちがいは少ない。

国家と言語の境界が一般には一致しないこと、ひとつの国が複数の公用語をもつことがあり、さらに、公用語となっていない言語を母語とする人びともいることなどは、地理教育で(「系統地理」的な)基礎知識として教えるべきことだと思う。

具体的な言語についてどのくらい詳しく教えるべきか?

高校教科書の地図帳には、世界全体や、たとえばヨーロッパの、「言語の分布図」がのっているが、そこでは、地図が、言語系統論による「語族」やそれの枝となる「語派」などで塗りわけられている。言語系統論によって「インド・ヨーロッパ語族」は確かにあると言ってよいが、その他の「語族」に関する学説は統一されていない(と、わたしは言語学のしろうとなりに認識している)。インド・ヨーロッパ語族以外の語族名(ウラル語族、アルタイ語族など)を暗記ものにするのはまずいと思う。「ヨーロッパの言語の大部分はインド・ヨーロッパ語族だが、フィンランド語はちがう」という知識は教えてもよいかもしれない。しかし、試験の出題は、系統論ではなく、いまの言語どうしの類似性の認識で答えられる問題にするべきだと思う。この点では今回の出題は悪くなかった。一般論としては、系統が遠くても借用語が多いなどの事情で類似性は高いこともあるのだが、フィンランド語とその近くの言語の場合は類似性と系統は対応するだろう。

また、地理学にこだわらず、現代世界に生きるための基礎知識として考えると、インターネットのウェブ上で見られる文字情報から、どの言語で書かれたものかを(ある程度)判別できる能力があるとよいと思う。その第1段階は、まず文字の種類を判別して、その文字を使っている言語のどれかだろうと判断することだろう。文字がローマ字(ラテンアルファベット)の場合には、第2段階として、少し読んでみて知っている言語との類似性を考えることができるだろう。日本の一般人の教養として、たとえば「ゲルマン系言語」(手もとにある地図帳での表現では「ゲルマン語派」)という言語群を認識し、スウェーデン語、ノルウェー語、フィンランド語をそれぞれ同定することはできなくてよいが、それぞれがゲルマン系言語に含まれるか含まれないかは判断できることを期待しても、よいかもしれないと思う。ただし、世界各地の言語群について同様に判断できるようになることはむずかしいと思う。わたしは、ヨーロッパの諸言語の優先順位を上げてもよいかもしれないと思うのだが、それは、ウェブ上に発信されている情報がわりあい多く、しかもローマ字で書かれたものが多いので、慣れる機会があるし、各人の近い将来に判断する必要が生じる可能性もあると思うからだ。(ただしこのような態度には、平等であるべき言語のうちで、すでに優位であるものをますます優位にすることに加担するものだ、という批判もあるかもしれない。)

「暗記もの」はまずいという観点で考えて、地理履修者に、「フィンランドにはスウェーデン語を母語とする人たちもいる」あるいは「フィンランドには公用語が2つある」という事実を知っていることを期待するべきではないだろう。他方、言われればその状況が理解できることは、期待してよいと思う。

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社会のなかには、人種差別・民族差別を含む差別の問題がある。それは、minorityの人びとに、majorityと同等な権利が認められていない状況、ということができる。(ここで、「多数派」「少数派」としないで、英語の majority, minorityという表現をしたのは、majorityは必ずしも人数が多いことをさすのではなく、実質権力をもっている集団や階層をさすからだ。なお、少数の人びとだけが権力をにぎっている社会もありうるのだが、その場合はこの用語では現実をうまく表現できなくなる。)

人として、minorityの人びとの生活は、majorityの人びとの生活と同様に、尊重されなければならない。地理学としても、minorityを考慮することを忘れてはいけないだろう。

しかし、あえていうと、地理のうちでも「世界地理」という巨視的な視点に立つときは、majorityに注目した世界規模や大陸規模の概観が必要だと、わたしは思う。Minorityを尊重する理念は、消すわけではないが、背後にかくれて、実勢の認識のほうがおもてに出るのだ。これは悪かもしれないが、必要悪だと思う。

地図学の用語として「総描」[注]というものがある。地図の縮尺( 地図上の長さ / 地球上の長さ という分数 )が小さくなるほど、あるいは同じ大きさの紙面に表示される地球上の地域が広くなるほど、地球上の面積あたりの地図上に表現可能な情報量は少なくなる。地球上の情報を単純化して表示するしかない。単純化のためにものごとを majority で代表させることが多くおこなわれる。

  • [注] 「総描」は、英語では generalization、あるいは「地図学の」であることを明示して cartographic generalization だそうだ。日本語で「一般化」とすると意味がちがってしまうと思う。しかし英語での両者は、同じ単語の複数の意味というよりも、連続した意味のひろがりのうちの複数の部分なのだろうと思う。[ここから2018-03-06補足]「総描」の意味は、専門を限定しない(しかし日常的でもない)日本語で「粗視化」と言いかえられると思う。英語では coarse-graining だろう。

地図をつくるのでなくても、地理の記述では、「総描」と同様なことをしている。

たとえば、世界地理やヨーロッパ地誌のレベルの記述では、フィンランドの言語については、フィンランド語をとりあげ、スウェーデン語をとりあげないことになりそうだ。このくらいの単純化は、必要悪なのだと思う。ただし、「フィンランドの国民のすべてがフィンランド語を第一言語としている」かのような誤解が生じないように注意するべきだろう。

人権はからまないが、人のほかのものごとにも majority / minority の関係はある。地形について、ノルウェーでは山地、フィンランドでは平地が majority だと言えるだろう。ノルウェーにも平地はあるし、フィンランドにも山地はある。しかしそれぞれの国土のうちで minority なのだ。このとき、ノルウェーと山地、フィンランドと平地の関連づけをさせたいとすれば、明示的に majority を問うことがわかる問題にするべきだろう。

地理では minority のことも扱うべきだと思うが、そのためには微視的な問題設定をする必要があると思う。