macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

入学試験問題について思うむずかしさ (1)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

- 1 -
大学の入学試験はどうあるべきかという議論、入学試験はほとんどの大学教員にとって時間を拘束される雑用にすぎないという現状認識とそれへの批判的意見、そして、試験問題がまちがっているという個別事例の指摘、さらに、試験問題がまちがっていたという判断によって追加合格を出した大学があるというニュースが、いくつか話題になった。

わたしは、まえに大学専任教員だったときに入学試験の出題者や採点者になったことがあるが、いまはその立場にない。入学試験の件については、継続して考えてはおらず、おりにふれて考えている。思いあたったことを、この記事を含む複数の記事として、書きとめておきたい。体系的ではなく断片的な議論しかできないことをおことわりしておく。

- 2 -
わたしは、日本の社会について、公的なものが正しくなければいけないというたてまえが強すぎるのではないかと感じることがある。(外国とつきあわせてくらべたわけではなく、日本でとくに強いというのは主観的感じにすぎないが。) ただし、日常的に正しさをチェックされているわけではない。たまたま正しくないことが指摘されると、その原因者 (制度よりもむしろ担当者個人) への責任追及がはげしくなる。制度化された学校教育 (小・中・高・大)は、たとえ私立でも、ここで「公的」とみなされがちだと思う。入学試験が「正しくない」ことは「許されない」ことになる。そして、許されないことが再発しないための対策が複雑になり、ときには「正しくする」目的に逆行する効果をもたらしていることもあると思う。

【民間会社は「公的」なものとはみなされず、入社試験などの「正しさ」が会社の外で批判されることはあまりない。国公立大学などの経営をもっと民間会社的にせよという意見が力をもつことがあるが、そういう主張をする人が「公的」な「正しさ」への追及をゆるめるかどうかは気まぐれだと思う。入学試験を含む公的機関の業務を民間会社に委託させるという政策の動きもあるが、その民間会社にも「公的」な「正しさ」の規範が求められるのかもあいまいになっていると思う。】

入学試験の場合、ここで仮に「正しい」とした価値基準は、実はいくつもある。

Fumiaki Nishihara(@f_nisihara) さんの2018年1月9日のTweetに、次のように書かれていた。

大学入試は、公平性と迅速性と正確性の三者をすべて成り立たしめるのは難しい気が。必ずどれかが犠牲になる気がします。

これはもっともだと思った。ただし、そのころに見かけたいろいろな人の議論を見てみると、「正確性」はさらに異質な複数のことがらに分かれると思った。ひとつは、問題と正しい解答の組が示す事実の正確性だ。もうひとつは、受験者の能力を測定する機能の正確性だ。(後者は Nishiharaさんのいう「公平性」とつながるものだが、それと同じではないと思う。)

- 3 -
また、大学入試で高校の教科・科目を明示した試験については、高校で教えている範囲をこえていてはいけない、という批判が生じることもよくある。

この批判の筋は、Nishiharaさんのいう「公平性」の一部で、試験を受けるまでに何を勉強すべきかが明示されているべきであり、その内容は受験生が住んでいる地域による有利不利が生じないようにするべきだ、ということなのだと思う。しかし、大学などにいる専門家の側からみると、学習指導要領や検定ずみ教科書の範囲は、学問の体系をむりやり断ち切ったところがある。(理科の物理で、実質的には微分積分を使っているのだが、生徒が数学のそれに関する科目を学んでいるとはかぎらないので、それを使わないふりをした表現をしている、というのは、あきらかだから対策できるが、かくれた事例もいろいろあると思う。)

日本では、高校教育に対して、国によるガイドライン(「学習指導要領」)が作られており、教科書は国定ではないが国による検定がおこなわれる。(わたしは、国家による思想統制を警戒する立場からは、検定制度はあるべきでないと思うこともある。他方、とくに理科・数学関係の教育内容に正しくないものがまざることを警戒する立場からは、品質管理のために検定制度があったほうがよいと思うこともある。) 国によっては、大学入学を決めるための基本的試験を、高校側の組織でやるから、そこで高校の教科の範囲を意識するのは無理なくできるだろう。日本では、大学入試は大学側の組織でやるにもかかわらず、そこで大学側が入学者に持っていてほしいと思う能力をすなおに問うのではなく、高校の教科の範囲を強く意識しなければならない。これは実施当事者にとってストレスの多い制度だと思う。実際には、高校の教科の範囲かどうかはいつも詳しくチェックされているわけではなく、たまたま話題になるときびしい意見が出るようだが。

- 4 -
ここからはおもに、正確性が問われた事例をとりあげたい。わたしから見ると、それはいずれも、「出題する組織はどういう特徴をもった問題を望ましいとするか」と「出題担当者はどういう内容の問題ならば正確な出題ができるか」がくいちがっているのだと思う。望ましい問題を正確に出せる人をつれてくる、あるいは出題を主な職務として雇って養成する、という策があまり現実的でないとすれば、望ましい問題よりも現有の教職員が正確に出せる問題を優先させるべきなのだろう。

- 5 -
問題が「正しくない」と判断されたらどうするか。

問題を「無効」とする場合にできることは、受験者をまた集めて再試験できるのでなければ、解答者全員正解扱いにすることだろう。これは、正しくない問題による被害者を救済するという観点ではもっともだ。しかし、その外にも影響が出る。その科目の試験を受ける人は全員が答えるべきだとされた問題の場合にかぎっても、他の科目を選択する人との競争になっているとすれば、他の科目とのバランスの問題がある。得点調整しなければ無効問題のある科目をとった人が有利になってしまう。得点調整すれば、無効問題が出た科目に残った有効問題の実質的重みが大きくなる。

問題は有効としながら、正解を追加する場合もある。(正解とされたものが実はまちがいだった場合にはそれも明示するのが筋ではあるが、それで採点しなおすのは現実的でないこともあるだろう。)

もちろん、問題を出す側は「正しい」問題を出すように努力するべきだと思う。しかし、過失で「正しくない」問題を出してしまったときの責任追及をきびしくすることにも弊害はあると思う。試験による選抜にはいくらかの偶然性が避けられない。当事者の立場は別として制度設計の立場では、ときたま「正しくない」問題にあたってしまう人がいることも、偶然性としてがまんするしかないのではないか、とも思う。