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山尾さんと民進党には まだ期待している

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Twitterで時事的な問題に出会って、Twitter上でコメントしようとしたものの、各投稿140字以内という制限のあるTwitterでは議論をするのがむずかしい。そこで、考えたことをブログ記事として書くことにした。

この記事の話題についてわたしはまったく専門性はない。日本の国政選挙の有権者であるという程度の当事者性があるが、それは多くの読者と共有するものだ。

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わたしは今の自民・公明政権の政策には反対だ。政策に関する大まかな意見は[2017-07-10 日本政府は緊縮でない政策をとってほしいが、安倍内閣を支持はしない。]の記事に書いた。政権交代してほしいと思っている。それにはなんらかの政党再編成も必要だと思うが、今ある政党のうちでは、民進党に期待する。

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山尾 志桜里(しおり)議員の名まえを知ったのは国会で保育所問題を指摘した件でだった。その後、安保法制の話題などでも名まえを見たような気がするが、個別に気にかけていなかった。

2017年9月の民進党の役員交代で、山尾さんが幹事長になるという報道があり、期待した。ただし山尾さん個人への期待というよりは、女性の政治家に、また相対的に若い政治家に、おもてに出てほしいという観点からだった。また、知るかぎりの山尾さんの特徴からは、党の組織運営をする幹事長よりは、(前にもつとめたことのある)政策調査会長のほうが適任かとは思った。

しかし、(理由不明のまま)幹事長候補からはずれたという報道があり、続いて「不倫」[注1]スキャンダルの報道があった。ただし本人は「不倫」を否定しているそうだ。わたしは山尾さんについての報道を追いかけていない。週刊誌報道はスキャンダル側に偏りがちだと思うので、評価は落ち着いてからにしたい。当面、「不倫」報道が事実無根であった可能性と、一夫一妻秩序からのなんらかの逸脱があった可能性の両にらみで考えることにする。

  • [注1] 「不倫」という用語は(わたしは未確認だが) 1983年のテレビドラマ「金曜日の妻たちへ」以後に広まった表現だという話もある。漢字から意味を考えると「倫理に反する」を意味するように思われるが、内容に対して不適切な用語だと思う。意味内容は「一夫一妻秩序からの逸脱」にあたると思うので、わたしはなるべくそのように表現したい。ただし行きがかり上、カッコつきで「不倫」と表現することもある。

わたしは、民進党は山尾さんを擁護するべきだったと思う。しかし、たとえ事実に反するものだったとしても、スキャンダル報道の渦中の人に、対外的に党を代表する発言をすることが多い幹事長の仕事をつとめさせるのは無理がある。もう少し裏方の役職で働いてもらうと言うべきだったと思う。

山尾さんが離党に至ったのは残念だと思う。この件にかぎらず、本人は違法なことをしたと思っておらず、したがって議員などの公職を辞職はしないが、「党に迷惑をかけないために」離党するということがよく見られるが、筋としておかしいと思う。しかし、現実のコミュニケーション対応策として、問いへの答えの回路を単純化するために、本人と党とを切り離すことは、あってよいとも思う。

理由はともかく、民進党が山尾さんを擁護できないのならば、離党はやむをえない。山尾さんには、政党無所属の政治家として活動を続けることを期待したい。

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一夫一妻秩序からの逸脱は、個人的な道徳の問題であり、政治家としての不正ではない。

ただし、個人的な道徳の規範から逸脱する人は政治家に適任でないという主張はありうる。選挙民にはそのように主張する自由はあるだろう。議員は必ずしもそれに従う必要はない。明確に審判がくだるのは、(もし)次の選挙に出たときに支持されるかどうかによってだろう。

日本の伝統的価値観には男女不平等があった。明治の近代化によって、一夫一妻秩序が明確化されたが、それへの逸脱への法的規制は男女不平等なものがつくられた。日本国憲法で、法の原則は男女平等になった(具体的法規定では再婚禁止期間などの不平等が残っているが)。しかし世間の価値観に不平等が残っている。

第二次大戦後も、男の政治家の一夫一妻秩序からの逸脱があっても、政治家としての資質が疑われる要因にはならなかったことがある。1970年代の田中角栄総理大臣の場合もそうだっただろう。宇野宗佑総理大臣の退陣(1989年)の場合は、どうだったのだろうか。妻以外の女の人との関係が問題だというよりは、その女の人にうらまれたことが、政治家としての資質を疑う要因になったのか、とも思う。

女の政治家は資質を疑われやすい、という世間の価値観の男女不平等があるのではないか、とわたしは感じる。ただし、確かにあるか、未確認である。

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宮崎謙介氏(自民党)が議員辞職した件を見ると、近ごろは男の政治家についても一夫一妻秩序からの逸脱に対してきびしくなっているのかもしれないと思う。しかし別の事情があるかもしれないと思う。
自分の子のことを例として子育てを政策課題として強調した([2016-01-24の記事]参照、そこでは個人名を出さなかったが)にもかかわらず、その子の親とは別の異性とつきあっていたことが、つじつまが合わないと考えられたことはありそうだ。
あるいは、(保守政治家の多数の価値観からみて) 男(の政治家)らしい態度から逸脱していると見られたのだろうか?
あるいは、一夫一妻秩序からの逸脱でなく別の点で、議員としての資質が低いと評価されたのだろうか?

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今井絵里子氏(自民党、離党も議員辞職もしていない)への批判の場合はどうだろうか。

今井氏については、もともと議員に適した能力をもっているか、疑問を示す人びとがいた。(これは本人への批判というよりも党が候補として擁立したことへの批判である。)

そして、当選直後の質問に答える姿勢への批判があった。とくに、沖縄出身であることが特徴なのに、沖縄の基地問題に関する考えを示さなかった。候補になるまで考えなかったのはしかたがないが、候補となってから当面の答えを用意しないのは、勉強不足と批判されても当然だろう。早くもそのとき「辞職せよ」と言った人がいたと思う。(わたしは、言わなかったが、辞職してほしいとは思った。ただし辞職を求めることが正義だとまでは思わなかった。) そう言った人が、「不倫」報道で名まえを見たのでまた「辞職せよ」と言ったとしても、「不倫」が理由とは限らないだろう。

今井氏に、「不倫」だけを理由に辞職をせまった人はいるか? たぶんいるが、少ないと思う。

議員用鉄道パスの私用への利用を不正だとして辞職をせまった人はいるだろう。この件は、わたしはグレーだと思う。鉄道パスの制度は、もともと、議員の政治活動は定型に限らないことを前提に、移動の自由を与えるようにつくられたものだと思う。[2017-07-04 公用車による子どもの送り迎えの件について考えたこと]の場合と同様に、私用のための時間を節約して(あるいは移動の疲れを少なくして)政治活動の時間をつくりだすためならば、直接には私用になる利用も認めてよいと思うのだ。しかしどんな私用もよいとするのは行き過ぎとも感じられる。ではどういう基準で選別するべきか、わたしは答えをもっていない。

今井氏の「不倫」のあいてとされた地方議員が地方議会の公費を不正利用していたことは確からしい。その人は議員辞職している。今井氏にも責任があるかどうかは、さらに情報がないとわからない。

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今井氏や宮崎氏を批判して、山尾氏を同様に批判しないのは不当だろうか? 判断が支持党派にもとづいたものではないかと反省する必要はある。しかし、個別事情が同じでないので、判断がちがうのはかならずしも党派性ではない。

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日本の政治に関する議論は、政策に関する論争よりも、政治家の行ないに関する非難に偏りすぎだと思う。

また、政治家の行ないのうちでは、政治家としての活動の中で違法行為があったかどうかに注目すべきだと思うが、(政治家である)個人の行動が道徳にかなっているかのほうに偏りすぎだと思う。

違法行為である汚職の疑いがあれば、それを追及するのはもっともだが、議会での議論がそれに(おそらくそれによって対立する政治家を失脚させる可能性に)とらわれて、政策論争が留守になるのはまずい。(多くの場合、政策失敗による国の損失は、汚職で動くカネよりも大きいはずだ。もちろん、汚職が政策の失敗を招くおそれもあるが、おもに政策の観点で評価してほしい。)

たとえば政治資金規正法違反の場合でも、違法行為の大きさが大きければ、議員不適格と判断され、議員辞職が正義にかなうとされることもあるだろう。

しかし、それほど大きくなければ「訂正し、それに伴って返金・納税の必要があればする」という形で前に進むべきこともあると思う。(山尾議員のガソリン代の件についてわたしは詳しく知らないが、たぶんこの部類の問題だと推測している。)

次に、私生活の道徳の観点で悪いことをした場合についてはどう考えたらよいだろうか。

悪いかどうかの判断には個人差があると思うが、仮に一致できたとしても、次のようになると思う。選挙民が、悪いことをしている議員に対して、次の選挙を待たずに辞職をせまることはあってよい。しかし、(別の)選挙民が、それでも支持することもあってよい。「悪さ」の評価と、政治家としての活動への期待との、バランスの判断になると思う。

政治家としての資質が高い場合に、たとえ「悪い」面があっても、政治家を続けてほしいと有権者が考えるほうに傾く可能性がある。ただし、そのように傾くのは、政治家が推進する政治の方向に賛同する場合だろうから、意見分布は党派的になりがちだろう。そうなるのは自然のなりゆきで、double standardをとがめてもしかたがないと思う。

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横浜市長選挙のとき、山尾さんが来て、林文子候補(現職市長、結果として当選)を支持する演説をしたことについて、批判する人があった。

今回の選挙では、林候補を自民・公明が支持していたので、反自民を政治信条とする人びとが、山尾さんの行動を裏切りとみなして非難したのだ。その論はわかるが、わたしは必ずしも同調しない。

今回の選挙で、民進党は自由投票としていた。また、過去の選挙で、林市長は、民主党に支持されていた。

また、首長は行政経営能力が求められるので、首長選挙は政党間の勢力争いでかたづけるべきではない。政治信条が近い候補であっても、行政経営能力に不安があるので支持できない、ということもありうる。

自治体の政策のうち特定の事業についての賛否を争点としてあまりに強調する候補者は、自治体全体を経営する仕事への適任性が疑われる(とわたしは思う)。

今回の選挙で、革新系の(と仮に呼ぶ)候補はカジノへの反対を争点にした。林候補はカジノ構想への賛否は保留という形で争点化を避けた。「隠れカジノ推進」という批判があたっている可能性もあるが、ほんとうにようす見の可能性もあると思う。

革新系候補が市立中学の給食問題を争点にしたのはもっともだと思う。林市長は、親が弁当をつくるべきという思想を述べたことがある。親がいない子や、親が仕事で忙しくて弁当をつくれない子についての配慮がたりない。ただし、もし林市長がその考えをあらためたうえで、資金難が理由で実行できないとしたならば、対立候補は資金計画を含めた提案を用意しないと対抗できないかもしれない。

選挙の争点になっていなかったようだが、前の期の林市長のもとで、市立中学で育鵬社の教科書を採用したことも、革新系の人びとから批判された。これもわたしは批判に賛同する。ただし、林市長が、育鵬社と同様な政治思想をもつ人が教育長などの職につくことを許容し仕事をまかせたことは確かだが、林市長自身が育鵬社のような政治思想を持つ人だと決めつけるのはまだデータ不足だと思った。市長は育鵬社とちがった政治思想も許容する可能性もある(と思われた)。もしそうならば、市長を支持したうえで、支持者として「教育長を交代させよ」「育鵬社を採用するな」などの働きかけが有効である可能性もあると思った。

横浜の民進党関係者のうちで、山尾さんに林候補の応援をさせようとした人は、林市長の実績のうち、教科書や給食については不満ではあるが、それは変えうると期待したのだと思う。

ところが、林市長の再選後、選挙中の林候補と自民党が政策協定を結んでいたという報道があった。内容は秘密だが、(育鵬社と明示はしていなかったらしいが)保守的な教科書の採用が含まれていたらしい。

山尾さんはそれを知らされていなかっただろう。それならば、今からでも「あなたと自民党との秘密協定を知っていたら支持しなかった。今からでも秘密協定を破棄してほしい。」と言ってほしいと思った。民進党の組織がそのように動くことは(残念ながら)ありそうもないが、離党した山尾さんなら、民進党に気がねなく動けるはずだ。ただし、「渦中の人」であるあいだは動けないだろう。しばらく待ちたい。