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『数値と客観性』(Porter: "Trust in Numbers")をめぐって

Porter (1995/2013)の『数値と客観性』(原題 Trust in Numbers)の読書会に参加した。そこでわたしが発言したことについてのメモをここに出しておきたい。(読書会全体の論点の紹介ではない。この本と直接関係ない論点もある。)

(読書会は2か所を通信でつないで開かれたのだが、残念ながら通信の調子がときどきわるく、他の会場の人の発言が詳しく聞きとれないことがあった。わたしの言ったことが他の会場では聞きとれなかった可能性もあると思う。それがこのメモを公開のところに置こうと思った動機である。また、同じ会場の人に向けてもことばがたりなかったところがあると思うので、補足しながら述べる。)

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(これは読書会の中での発言ではなく、ある参加者と個別に話したことなのだが)
この本で、「客観性」ということばは、日本語版の題名に出てくるだけでなく、原本の副題に objectivity があり、ペーパーバック版の表紙では副題のうちこの語だけ色を変えているので、著者が重視したことばにはちがいない。しかし、この語は、哲学的な意味での「客観性」ではなく、もっと軽い意味で使われていると思う。各個人の主観的な事実認識ではなく、複数の人が共有できる事実認識ということだ。ただし、ひとつの専門家集団のうちで共有された知識は、日常的に仕事をいっしょにするあいだに共有される暗黙の知識に依存するところがあるので、そのままでは集団の外の人には正しく伝わらないことが多い。(本書に出てくる高エネルギー物理学者の集団は、集団外とのコミュニケーションよりも集団内の評価のほうが重要である状況の例なのだと思う。) 専門集団のわくを越えて知識を伝えるためには、なんらかの性質を高める必要があるのだ。その性質は、哲学用語の「客観性」とは別のことなのだが、いくらか似ており、ほかに適切なことばに思いあたらないので「客観性」と呼んでいるのだと思う。

この本の主題はむしろ「信頼」(trust)であり、客観性を追求することと、信頼を得ようとすることとは、ほぼ同じこととされているようだ。つまり「客観性」とは「信頼を得たい相手に論旨が通用すること」に近い意味なのかもしれない。ただし、読書会中でも指摘されていたが、この本の話題のうちでも、信頼を得たい相手が、一般市民だったり、政府だったり、他の分野の専門家だったりと、いろいろな場合を含んでいて、そのために必要となる知識の性質も必ずしも同じでないかもしれない。

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わたしが読書会の討論の時間の最初に発言したことは、別ブログの[読書メモ]にも書いたことだ。

本書でいう「定量的」と「数学的」のちがいは、言われてみれば理解できる。わたしが勉強した気象学の専門家集団の中でも、人によってどちらかが強い場合がある。しかしそれは同じ専門家集団の中の個性だ。わたしの仕事は「定量的」だが、わたしの出身のスクールはどちらかといえば「数学的」だったと思う。本書第1章(日本語版50ページ)にはVilhelm Bjerknesが気象学の「定量化」(具体的には多地点の定量的観測データの品質をそろえること)に貢献した人として出てくるのだが、多くの気象学者はBjerknesをむしろ気象学の「数学化」(微分方程式で表現すること)の元祖のような人と見ていると思う。ただし、このばあいの「数学化」は、すでに数学化された物理の方法を使ったのであって、むしろ「物理化」というべきかもしれない。

そのような背景をもったわたしには、本書第3章で、経済学では、とくに19世紀には、「定量化」と「数学化」が別々の動きだった、と記述されていたことは、たぶん歴史的事実として正しいのだと思うが、驚きだった。物理をすぐに使うことができない専門分野の「数学化」は、Porterがいうように「定量化」とは別のことなのかもしれない。今の近代経済学の主流は、本書に出てくる人名で言えばWalrasに代表される、「数学化」のほうの流れをくんで発達してきた。ところが、「定量化」のほうには、たとえば(上記の気象学の物理化で使われる理論であるNavier-Stokes方程式の定式化をした人のひとりであり、その意味で物理学者とみなされることもある) Navierが、公共事業の(今の用語で言えば)費用便益分析をしていた、という話が出てくる。Navierの本職は簡単に言えば土木の水理学だから、流体力学をやっても運河の事業評価をやってもふしぎはないのだが、彼ひとりに限らず、19世紀には今よりも物理に関心をもつ人と経済の定量化に関心をもつ人が近かったのだと思う。

「歴史のもしも」として、数量を使った経済学として、Walrasのようなものではなく、Navierのようなものが発達していたら、今のエネルギー問題・環境問題にはもっとよく対処できたのではないか、と思う。なぜそうならなかったのかは偶然としか言えないかもしれないが、Warlasなどの「数学化」が主流となった要因を科学史(経済学史を含む意味で言っている)としてどなたか検討してくださるとありがたい。

なお、Pikettyの『21世紀の資本[読書メモ]は、「定量的」だが「数学的」ではない経済学がふたたび注目されている例なのだと思う。しかし物理変数が出てくるわけではなく、わたしが期待する「定量化」の流れの復活にはあまり近くない。「定量化」の流れもさらに分けて考える必要があるのかもしれない。

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読書会の討論の部で、地球温暖化に関する、「温暖化していない」という言説の話題が出たのだが、このとき通信が乱れがちだったこともあって、発言の趣旨をわたしが正しくとらえることができたかこころもとない。

ともかく、わたしは次のようなことを指摘した。地球温暖化に関する科学的見通しのいちばん主要な部分は、「このままでは今後数十年間に温暖化が起こる」(A)という未来に関する予想であって、それは「すでに温暖化が起きている」(B)という近い過去に関する事実認識に依存していない。専門科学者集団の確信度は、(B)についてよりも(A)についてのほうが高いのだ。(B)を前提とせずに(A)を主張できるのは、物理法則に基づく理論があるからだ。これは、しろうとや、経済学など直接物理法則に基づく理論がない分野の専門家にはわかりにくいことだろう。(Porterの本の話題にひきつけていうと、温暖化予測は「定量的」と「数学的」のまじった特徴をもっているので、どちらか一方の純粋なものしか認めない人に信頼してもらうのはなかなかむずかしい。) 温暖化問題の知識を専門家以外の人が共有できるものにするためにはここに重点を置く必要があると思う。

このわたしの論点について、学問の「公理的方法」と「経験的方法」の対照にあたるか、という問いがあった。わたしが思うには、物理法則に基づく理論は、数学の公理的方法と同じではない。しかし、経験から出発する方法との対比での相対的位置としては、近いところにあると思う。

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一方で、近年の研究不正問題、他方で、知識を伝達する手段としては数量だけでなく画像がある、という論点が出て、両方がからむ論点もあった。(研究不正は、専門家が信頼されなくなること(のうち深刻な場合)にあたり、「信頼」とは密接な関係にある問題だ。)

研究不正に関しては、とくに、生化学実験の電気泳動の画像を切り張りすることを不正とする議論が話題になった。(これは、わたしの理解では、長さにしても濃淡にしても尺度を違えたらそのことを明示する必要があり、明示しないで違うものをつないではいけない、ということなのだと思う。) これを含む一般的な話だが、知識提供の際の信頼を確保するための方法として、画像に関する約束の標準化が進められることがある。ただしその標準化は分野ごとに違う。文科省で考えられているガイドラインでも、各分野ごとのgood practiceに従うこと、といったものになっているそうだ。

地球物理の分野で、(尺度を違えたら明示するという規範はもっともなのだが、もしそれにとどまらずもっと包括的な規制として)「画像の強調や切り張りはいけない」などと言われたら困る。もっとも、こちらの画像はたいていの場合、実験対象をすなおに撮影したものではなく、観測値をいったん数値化したあと作図したグラフのたぐいなのだ。そして、地球物理のうちの各分野(たとえば「気象学」)ごとに、物理量の標準化はあるが、図のつくりかたについては、研究プロジェクトごとに標準化することはあるが、分野としての標準があることはあまりないと思う。分野ごとに一定のソフトウェアが普及していることが多いが、同じものを使っても尺度や色の使いかたには選択が可能で、それをどう選ぶかは個人ごとに違うこともある。

また、観測データを図示する際に、異常値を恣意的に取り除いてはいけない、というのは専門分野内の規範でもあるし複数の分野に共通する規範でもあるだろう。しかし、異常値のうちには、伝達の際の文字化けや桁のまちがいなど、統計処理の際に観測値と同じ母集団からのサンプルに含まれるとみなしてはまずいものもある。こういうものを取り除く「クリーニング」処理は、むしろ専門分野の規範にかなったことである。その際の判断には分野内の訓練を必要とする。研究結果を再現可能にするとともに、不正の疑いを避けるためには、クリーニングの過程をきちんと記録することが望ましい。(他の参加者の話によれば)社会統計を使う研究論文の付録にその記録をつけるという規範をもつ分野もあるそうだ。この記録を単純に義務づけると研究活動の効率が非常に落ちることもある。コンピュータ上の処理であれば効率を落とさずに記録を確実にとるしくみをつくることができそうだが、まだじゅうぶん実用になっていない。

気象観測データについては、1980年代ごろ、気候の変化を検出するという課題が認識されたのに伴って、観測データの質の長期的変化が問題になり、過去にさかのぼって、観測機器や設置状況などの情報が(わかればであるが)加えられてきた。Paul Edwards (2010) A Vast Machine [読書ノート]の議論を参考にして言えば、同じ気象観測データでも、天気予報のために使うときと、気候変化の検討に使うときでは、信頼性の要求が違うのだ。

また、画像に関して、「プレゼンテーション用の画像が説得力を高めるくふうをしてつくられることがあるが、それは内容の信頼性を伴っておらず、信頼性についてまちがった印象を与えるおそれがある。それを意図的にやるならば不正だろう。」ということも指摘された。Porterの本とはだいぶ違う話題なのでこの日は追求しなかったが、これも気にかかる件ではあった。

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研究不正問題の文脈で、デンマークで、Bjorn Lomborg氏の環境問題に関する著作について、他の科学者から「統計の恣意的な利用であり、科学的欺瞞ではないか」という訴えがあって審査が行なわれた、という件の話題が出た。話題を提供してくれた人もよく記憶していなかったが、結論は「Lomborg氏はその問題のexpertでないので不正ではない」というものだったらしい。

わたしの記憶でも、指摘された問題は生態学(およびもしかすると気候学)のもので、Lomborg氏はその専門家とは言えないと思う。しかし、Lomborg氏の議論の基本は、環境変化の被害と対策の費用の比較であり、彼は費用便益分析に関しては専門性を問われるべき立場だろうと思う。一般論になるが、複雑すぎてだれも全部の話題にじゅうぶんな専門知識を持たないような問題であっても、だれかが専門家として発言することはある。その場合に専門家はどのような信頼性を求められるのか、という問題がある。

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科学者集団の社会への助言は "unique voice" であるべきか、同じことだと思うが(読書会で出た表現ではないが)科学者間の consensus を示すべきか、というむずかしい問題がある。科学者が科学的に問題を検討する過程では、不確かな見解を述べる自由が必要だ。しかし、それがそのまま専門家の見解として専門家集団外に示されると、混乱を招くかもしれない。

わたしがIPCCの例などをもとに考えてみると、consensus として示されるのは、かなり大きな幅をもったものだ。たとえば温暖化の見通しを、ある特定の定義をされた変量の値の、1.5℃から4.5℃という区間で示したとする。この例は、それが0.5℃であったり9℃であったりすることはありそうもない、という主張を含んでいるが、2℃と4℃のどちらの確率が高いかといった判断は含んでいない。いわゆるunique voiceであるべきだという主張も、このような形で示せということならば、もっともだと思う。

しかし、幅をもって示すことができるためには、いろいろな知見のうちで、同じ次元の軸にのせてよいものとそうしてはいけないものをよりわけなければならない(換算などの変換をすればのせられるものもあるかもしれない)。また、同じ次元と思われる数量を出している知見のうちでも、さきほど述べた観測値の伝達まちがいに類する、「誤差を含むデータ」ではなく「データから除外すべきまちがい」として扱うべきものがあるかもしれない。しかし、同じ次元にのるものかの判断、まちがいかどうかの判断には、対象分野の専門の暗黙の知識を必要とする。社会がその分野の専門家集団全体の信頼性を疑っている場合には、その選別が許されないかもしれない。かといって、選別しないまま幅を示したのでは、社会への助言として役だたないだろう。

この行き詰まりを打開するには、 (わたしの持論になってしまうが)、社会は、専門分野ごとに、その分野の専門用語や慣習をよく知っているが、その分野の専門家集団と利害をともにしないことが明確な人を確保するべきなのだと思う。

文献

  • Theodore M. Porter, 1995: Trust in Numbers: The Pursuit of Objectivity in Science and Public Life. Princeton University Press. [日本語版] セオドア・M. ポーター 著, 藤垣 裕子 訳 (2013): 数値と客観性 -- 科学と社会における信頼の獲得みすず書房[読書メモ]