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国立・公立研究機関は「技術営業」に力をいれる必要があるだろう

公的研究機関でも、技術開発をしていて、その技術が商品化できる場合には、そうすることが求められることが多い。ただし公的研究機関自身は商業活動ができないから、民間企業に技術移転することになる。その代償をもらうのか、もらう場合は担当した機関、働いた個人、出資者の取り分はどうなるのかという問題もあるだろう。

しかし、わたしの知っている専門分野の研究機関(複数)では、そういう状況はあまり起こらない。基礎科学だけでなく応用といえる仕事もあることはあるのだが、実用までにはまだ別のところでの技術開発が必要であったり、技術が実用化されるとすれば主体は公共部門だろうと予想されるものであったりして、「商品化」に向かう展望はえがけないのだ。そうすると、研究機関内の業績評価は、基礎研究としてのものが中心となり、専門分野の学術雑誌に論文を出すことがまるで唯一の目的であるかのような言動が支配しがちになる。

【わたしは、そのような研究機関にいながら、専門の論文になるような仕事をする習慣や意欲を失ってしまった、なさけない存在であり、これから書くことも、いくらかは、自分の態度の言いわけ、という面もある。しかし、自分の処遇のことなどかまわず、わたしの所属機関を含む公的研究機関がどんな仕事をすべきか、と考えても、次のような主張をしたくなるのだ。】

基礎科学の研究機関が求められている仕事は「知識の生産」とみなすこともできる(これを唯一の定義のようなものとみなすべきだとは思わないが)。ところが、現状では、多くの基礎科学研究者は、かなり狭い専門分野の同僚にだけ理解できる専門知識を生産している。それだけでは、専門の外から見れば、知識を生産するという社会に対する約束を果たしているとは言えないのではないか。もし、世界のどこかで、その分野の基礎科学を理解できる人がその成果を応用研究、さらには技術開発に使って、その技術が実用になれば、確かに社会への貢献になるのだが、それには時間がかかるので、研究者の人事評価や研究機関の業務評価のサイクルの内には間に合わないだろう。

その専門分野の研究成果とその背景を理解できる人々のだれかが、その内容を、より広い人類共有の学術知識につながる形で提示して、はじめて、人類にとって知識生産がおこなわれたことになるのだと思う。その提示の際には、だれかに対して対話型で提示して実際に理解してもらえるか確かめながら提示のしかたを改良することや、他分野の知識の記述を参照して相互のつながりを読者にわかるように表現しなおすことなどの努力も必要となるだろう。

この提示しなおしをする人は、研究機関とは別の機関に属していてもよい。たとえば大学教員が学生に対する授業の教材を兼ねて社会に向けた提示材料をつくるのもよいかもしれない。

しかし、研究機関自体にいる研究者のうちにも、その仕事ができる人がいるはずで、そういう人には、狭い意味の研究(専門分野内の人に理解できる知識の生産)の時間を減らしてでも、社会に向けた知識の提示に時間をさいてもらったほうがよいこともあるのではないだろうか。同じ研究職として雇われている人のうちでも得意不得意があるので、時間配分は人によって違ってよいと思う。機関の業務のうちで優劣はつけず、どちらの仕事にさいた時間も同格とするのがよいと思う。機関には、国または地方自治体の税金からの予算配分を維持したい(できればふやしてほしい)という意志があるはずだが、それならば、直接の監督官庁や評価委員が見るスコアだけでなく、なるべく多くの納税者に生産された知識を還元することは、本来業務の重要な部分のはずだ。

もちろん現状でも、機関には広報部門がある。しかしその運営はふつう、広報専業の職員が、研究者から聞き取りをして広報物の形を整えることに限られがちだ。広報物のうちには、その専門分野を教える大学教員が教材として使いたくなるような質のものもあることはあるが、多くのものがその質になるためには、専門研究者に本務の業績になりうるものとして時間をさいてもらうべきだろうと思う。

研究機関の利害としては、次の研究プロジェクトの予算をとってくる必要がある。その際に、研究プロジェクトが成功すれば(研究機関とは別の主体によるものを含めて)どのような応用が可能かといった展望を求められることもある。(研究は失敗することもあり、へたに安請け合いするわけにはいかないが。) 同業研究者の評価だけを考えてものを読み書きしている研究者だけでは、応用の展望に気づかないことがある。他方、研究の現場にいない企画担当者だけでは、現場の困難を理解しないまま無理な構想をたててしまう心配もある。

製造業会社で使われる用語をまねして言えば「技術営業」が必要なのだと思う。研究がうまくいって技術に結びつけば使いたいと言ってくれそうな人たちをさがして、研究の現状を提示し、このさきどのように進めれば使いものになるかを考えてもらう仕事もある。研究資金を出してくれそうな国の役所などに、研究が(既存の計画に書いたもの以外に)どんな応用にむすびつく可能性があるか、そのためには研究の進めかたにどのような変更が必要か、を説明する仕事もある。そして納税者を含む一般の人々に説明するとともにどのように提示すれば支持が得られそうかをつかむ仕事もある。

【[2015-03-11補足] そういう営業活動では、科学技術の先端のまだ不確かなところやまだ実現されていないところと、行政やマスメディアで話題になっているキーワードとを表面的に結びつけた話題提供のしかたがありがちになる。とくに、目的が、いま先端とされるプロジェクトの成果を認めてもらうことや、次に先端とされるプロジェクトの提案であり、しかも時間や紙面が限られている場合には、(わたしから見ると腹立たしいことだが) その役まわりのかたはそうするしかないことも多いと思う。

しかし、先端の話題を聞き手・読み手がほんとうに理解するためには、背景知識が必要だ。それはすでに専門分野の入門者向けの教科書のようなものには書かれていることが多いだろうが、専門の勉強をしたことのない人は糸口としてまず何を見たらよいかもわからないことが多いだろう。わたしは、「技術営業」の人には、求められたときには背景知識を説明できる用意が必要だと思う。相手がどれだけ時間をかけられるか、また、相手がそれまでにどんな関連の知識をもっているかによって、説明のしかたも詳しさもさまざまになるだろう。それに応じることは、先端の研究に劣らず[「専門的な」というと変かもしれないが]プロフェッショナルな仕事といえるだろう。さらに、その背景知識を説明に使いやすい形に用意しておく仕事もある。研究機関はそういう役まわりに職員の労働を配分する必要があると思う。説明する役とその材料を用意する役を一括するか別々の役割として位置づけるかは機関ごとの判断によるだろう。】

理想的には、社会から求められる知識の提示の仕事と、研究機関の生き残りのための技術営業の仕事とは、ほぼ同じになるはずだ。しかし、機関が推進しようとする研究内容に対して、社会のかなりの部分の人たちが「研究を続けて得られるだろう技術が実施されることは社会にとってむしろ有害である」と判断するような状況もありうる。そのような場合には、両者のあいだには深刻な対立がありうる。研究機関とは独立な立場でその言動を評価する人も必要になるだろう。