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科学者によるadvocacy (「社会はこうすべきだ」と言うこと)

日本気象学会のシンポジウム「気象学における科学コミュニケーションの在り方」が2014年5月23日に開かれた。(シンポジウム企画者による予告ページがここにある。https://www.facebook.com/events/251398138344803/ TwitterのまとめがTogetterのここにある。http://togetter.com/li/670932。)

この中での江守正多さんの講演予稿「研究者の科学的発信に客観中立はあるのか?」は、ここ http://bylines.news.yahoo.co.jp/emoriseita/20140520-00035511/ にも置かれている。このブログ記事ではひとまず、この江守さんの話題に関するわたしの考えを述べる。(シンポジウムの他の部分については別の記事にする予定。)

江守さんがたてた問題は「研究者はアドヴォカシー(advocacy)にどこまでかかわるか」と表現することができる。(ここで「研究者」と「科学者」ということばはとくに区別せず大まかな意味で使っている。) Advocacyということばは説明しにくいが、社会の多くの人々に対して「これこれのようにするべきだ」と勧めることをさす。Advocacyの背後には必ず規範的価値判断がある(ただし、規範的価値判断を含む発言がすべてadvocacyというわけではない)。科学の範囲をどうとらえるかにもよるのだが、もし科学は事実にだけ(事実に関する推測を含むが)かかわるものであり価値にはかかわらないという立場をとれば、advocacyは科学の外になる。しかし現実の科学研究者は個人でもあり、少なくとも個人としてはadvocacyにかかわることはあって当然だろう。

江守さんは、(わたしが2013-12-27の記事でもふれた) Gavin Schmidt(ガヴィン・シュミット)さんの2013年12月のAmerican Geophysical Unionでの講演(Schmidtさんのブログ記事 http://www.realclimate.org/index.php/archives/2013/12/agu-talk-on-science-and-advocacy/ から動画のリンクがある)を題材にとりあげた。

Schmidtさんの論点のひとつは、現代社会では(とくに環境政策関係では)「政治の科学化」(政治的な対立が科学的見解の違いに関する論争の形をとること)が起きているので、科学者の行動として「隠れadvocacy」(stealth issue advocacy ... この表現はRoger Pielke Jr.さんによる)が起こりがちだということだ。これはまずいが、advocacyであることがまずいのではなく、advocacyであることが明示されず科学的事実の提示であるように見えるのがまずいのだ。【[2014-05-26補足] 「科学の政治化」と「政治の科学化」は関連はあるが区別されている。25日にこのブログ記事を書いた際に、区別を認識して書いたつもりだったのだがうっかり書きまちがえていた。26日に訂正した。】

またSchmidtさんは、無責任なadvocacyはいけない、責任をもったadvocacyをしよう、という。上記の「隠れadvocacy」は無責任なadvocacyの一種だといえるだろう。江守さんもこの主張を原則的に賛同する態度でとりあげていたし、わたしも原則的に賛同する。ただし、責任をもったadvocacyとはどんなものかについてSchmidtさんの考えを必ずしもよく理解しておらず、理解した場合にわたしが全面的に賛同するかどうかはわからない。

江守さんは、advocacyのうちで、直接的な政策の提言(たとえば、地球温暖化問題ならば、「炭素税をかけるべきだ」など)と、政策決定の進めかたなどに関するもの(たとえば、「政策判断は科学的根拠に基づくべきだ」など)とを区別するべきだという。

そして、江守さんは、科学者が、自分の専門にかかわる政策の直接的advocacyをしていけないわけではないのだが、それは得策でないと判断し、自分は避けている、という。得策でないというのは、もし具体的な政策に関する主張をおもてに出すと、その件で主張が対立する人から信頼されにくくなり、話をよく聞いてもらう機会も減ってしまう、ということだ。わたしは、この江守さんの考えを自分の意見としても主張するところまで賛同してはいないが、自分の意見がまとまらないなかで参考になる考えのひとつだとは思う。