macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

デマケ - 出負け?

中央官庁の人を主とする会話の中で、「デマケ」ということばがとびかっていた。わたしには「出負け」と思えたが、それでは意味が通じるような通じないようなだった。

わたしも会話に加わる必要が生じた際に、これは英語のdemarcationからきたことばだと教えてもらった。

Demarcationと言えばわたしが思い出すのは「科学と科学でないものとの境界設定」だ。わりあい最近には「もうダマされないための「科学」講義[読書メモ]や「科学を語るとはどういうことか[読書メモ]伊勢田哲治さんが論じている。「線引き問題」という表現もある。わたしは学生のときPopperの著作やその関連のものをいろいろ読んだので[Mageeの本の読書ノート]、その境界の基準は仮説の「反証可能性」である、という説がしみついているが、今では必ずしもその説にはこだわらなくなっている。

科学哲学を別にすれば、DemarcationというよりもDemarcaçãoまたはDemarcaciónだが、15-16世紀にポルトガルとスペインが世界を二分して支配しようとした線引きだ。

日本の役所のデマケはそんな壮大な話ではない。新しい事業(たいてい「省」の予算規模の何百分の1かのものだが)を提案するとき、既存の事業との業務の違いや役割分担を明確にすることをさす。税金からの支出にむだがあってはいけないので、対象の重複を避けなければならないとされているのだ。

むだをなくすべきだというのはもっともだ。しかし、(たまたま出会ったものごとに関するわたしの印象にすぎないが)、近ごろの日本の役所は、他の役所や他の事業の領域にはみだすことをおそれるあまり、境界に近づくことさえ避ける傾向があるように思われる。結果として、複数の役所の仕事にまたがる課題は、どちら側もやる気を起こさず取り残されることが多くなる。この現象を「出負け」と呼びたくなった。「出ると負け」という意識のために両者不戦敗というなさけないことだ。

外国でも税金のむだづかいへの批判はあると思うのだが、アメリカの例をみると(わたしは日本の行政への批判に使えるほど確実な知識を持っていないが)、複数の役所の下で実質似たような仕事に予算がつき、現場どうしが連携して活動することがある。動き出してから役所どうしの事業計画を調整して複合効果があがるようにくふうすることもあるようだ。役所の業務範囲の境界が明確な線として見えないとき、アメリカでは、境界を越えることをおそれずに手を広げてしまい、あとで調整することが奨励されているように思われる。

日本の「出負け」は日本特有なのだろうか。わたしにはよくわからないが、外国の機関と仕事をしている同僚たちの世間話がもっともだとすれば、モンスーンアジア(東・東南・南アジア)では似た傾向があるかもしれない。ただしおそらくモンスーンとは関係ないだろう。人口密度の高い定住社会で、公務員の人数も多く固定した職務分担をもつことが伝統的に有効だったからなのかもしれないと思う。

公共部門で使える資源は限られているので事業間の重複を避けること自体はよいことだ。しかし、社会が求める役所の役割は、役所の組織ができたときや既存の事業が企画されたときとは変わっていくので、不明確な境界にかかるかもしれない仕事については「出負け」ではなく「出てから調整する」にしていく必要があると思う。

[2016-12-08補足] ことばの意味を考えてみると、「出負け」は出てから負けることにふさわしい。「出ないで負ける」ことは「でず負け」とでも言うべきかもしれない。