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シミュレーションによる科学的知見の意義 (Norton and Suppe 2001)

地球温暖化に関する政策決定の材料として、科学的知見が使われているが、そのうちでも予測型のシミュレーションで得られた知見が重要な位置をしめている。ところが、ときどき、専門家から見て信頼できないと思われるシミュレーション結果の細部まで、信頼できる予測であるかのように使われているのではないかと心配になることもある。シミュレーションで得られた知見は、どういう意味で使えるものであり、どういう意味で使えないものかの問題整理が必要だと思う。

科学哲学者の伊勢田哲治さんが6月15日の科学基礎論学会シンポジウムで「シミュレーションの認識論に何ができるか」という発表をされたのを知った([伊勢田さんのブログ記事2013-06-19])。その議論はNorton and Suppe (2001)の論点をもとにしている。Suppeさんは伊勢田さんの博士論文の指導者で名まえは「サッピ」とよむのだそうだ。

Norton and Suppeの章を含むMiller and Edwardsの本はWeart (2003)「温暖化の発見[読書ノート]の参考文献でもあったので、読もうとした覚えはあるのだが、実際に読んでいなかったようだ。あらためて(Google Booksと図書館の本をあわせて)、まずNorton and Suppeの章だけ読んだ。

ここから、おもにわたしが理解した限りでのNorton and Suppeの論点のメモ。わたしの意見・感想などは【...】の形で示す。

この章は、広い意味の温暖化懐疑論の一種である「シミュレーションによる知見は信頼できない」という主張に反論するという意識をもって書かれている。【このことは、自分が温暖化懐疑論に反論したいときには助けになるが、シミュレーションから得られた知見の科学哲学的意義に関する標準的な議論として使う際には弱さとなると思う。】

著者たちは、政策決定の場でどんな科学的知見を採用するかは社会的選択の問題であるとし、ここではそれは論じないで、その根拠として使われうる科学的知見の性質に限って論じる、という態度をとっている。

主張は要するに、認識論的立場から見れば、シミュレーションによる知見は、物体を使った従来の実験による知見と同質のものであり、差別することはない、というものだ。

議論には「データのモデル」(models of data)という概念が使われている。Suppes (Suppeとは別人)の1962年の論文が参考文献としてあがっている。【Suppesの論文はGoogle Scholarで検索したら別刷りのPDFファイルはすぐ見つかったが、意味を理解するには確率的推論の背景知識が必要になりそうだ。Norton and Suppeの文脈からわたしが推測した意味は次のようになる。科学者は、研究対象の理論や仮説で利用可能なデータの構造を持っていて、観測・実験・シミュレーションで得られたデータをその構造にあてはまるように組みかえて使う。「データのモデル」はこの構造をさす場合とそこに実質的情報を入れたものをさす場合がある。】

従来の実験の例として、風洞で飛行機の模型にかかる力などの物理量を測定する実験を考える。現実の大気に比べて、風が一方向から送られるように状況が単純化されているが、それでも壁の影響などによる系統誤差がある。また測定にはランダム誤差がある。物体として実験装置を制御して系統誤差を小さくする努力もされるが、測定後のデータ整約【data reductionをひとまずこうしておく。「制約」とまぎらわしいので用語は考えなおしたい】で誤差の小さい推定値を得ることも重要であり、その結果の「データのモデル」が以後の研究に使われる。

単純な観測にも観測機器に含まれたモデルがかかわる。たとえば熱電対で温度をはかるならば温度と電圧を関連づけるモデルがある。さらに温度がわかっている物質を測定して較正することも行なわれる。

衛星リモートセンシングで気温を求める場合は、気温分布が知られた状況で放射伝達によって放射強度を求める式の逆問題を解くことになる。この逆問題は未知数に比べて制約が不足することがある。この状況を哲学的なunderdeterminationととらえる人々がいる。数学的問題としてとらえればそうかもしれない。しかし、気温を求める人は、方程式系の内側にとどまらず外側の知見(たとえば気象学的知識)をも動員して追加の仮定を加えるので、(Norton and Suppeによれば)これはunderdeterminationの状況ではない。追加の仮定は不確かなこともあり、明らかに偽であることさえある(たとえば、大気を離散的な層とみなすこと)。それでも結果として得られた構造をもつデータは、現実世界の構造を反映できることがある。

シミュレーションについては次のように考える。

まず、現実世界のふるまいを単純化した「基礎モデル」Bを考える。複数の変数の組からなる状態をもち、それが時間とともに遷移する。ここで時間は離散的としている。【わたしはここで連続時間のモデルを考えたほうがよいと思うが、それでは哲学的理論化がむずかしいのかもしれない。】

実際にシミュレーションに使われるのはBをさらに単純化した「縮約モデル(lumped model)」Lである。たとえばBの時間刻みが1日でLの時間刻みは1年かもしれない。なお、Bが決定論的でLがstochastic、あるいはその逆であってもよい。

LはコンピュータCの中で実現される。BからL、CからLの写像が成り立ち(もう少し詳しい条件があるが)、BがLで表現されない効果から隔離されているとみなせれば、Cの中のLのふるまいを観察することによって、Bに関する、ひいては現実世界に関する新たな(現実世界を観察するだけでは得られない)知見を得ることができる。したがって、シミュレーションモデルは、現実世界に対する一種の測器として働くことができる。

シミュレーションは実験であり、シミュレーション結果はデータのモデルである。したがって、認識論の立場では、シミュレーション型研究と実験型研究は区別しなくてよい。

とくに数値天気予報モデルあるいは大気大循環モデルの場合について考える。

縮約としては、離散化に伴う空間・時間の格子間隔のとりかたがある。また、方程式の静水圧近似や準地衡風近似、初期状態や各時間ステップの数値フィルタリングなどによって、Lモデルの格子に対して細かすぎる変化(たとえば音波)を落としたり減衰させたりするくふうがある。また、格子で直接表現できないが集団的効果のある現象(たとえば雲)をパラメタ化(経験によって較正されるparameterを含む表現)するくふうがある。

実験は、現象の単純化したバージョンを制御された条件で観察することである。シミュレーションの場合、制御はおもに縮約によってなされる。そこで非現実的な要素がはいりこむこと自体は問題ではなく、非現実的な要素が解釈されるデータと干渉しなければよい。

シミュレーションによって期待されるのは、単一の答えではなく、モデリングの不確かさや仮定の影響を受けにくいrobustな知見である。Robustnessを確かめるため、パラメタ値や初期値などを変えた感度分析が行なわれる。モデルが線形ならばパラメタ値の組み合わせに対する感度分析も完全に行なえるが、大循環モデルは非線形なのでむずかしい。「アジョイント感度分析」などの技法が考えられている。

ここまでをまとめると、次の原則は、伝統的実験にも、遠隔観測やシミュレーションにも成り立つ。
1. 実験やシミュレーションは、現実世界に対する測器となりうる。
2. データの欠損は(しかるべき条件のもとでは)仮定で補うことができる。
3. (仮定を加えることによって) coherentな構造を得ることができる。
4. 得られる構造は現実と対応する場合と非現実的な(artifactual、モデリングの方法や仮定に由来する)場合がある。
5. さらにモデリングを進めて、現実の特徴と非現実的な特徴とを判別する。
6. データ整約などによって、望ましくないことがらの影響の混入を防ぐ。
7. 観測事実を説明できるデータのモデル群を構築し、研究の目的に対して適切な形で知識を述べる。

哲学者の議論には、モデルからは信頼できる経験的知識が得られないという主張がときどき見られる。たとえばOreskes et al. (1994; Shrader-Frechetteが哲学者)の議論がそうだ。しかし彼らの議論は、単一の答えを期待していることと、信頼できる知識は確実に真であることを期待していることに無理がある。【その後、Oreskesは地球温暖化の見通しを支持する発言をしているので、気候モデルをまったく信頼できないと考えているとは思えない。考えが変わったのだろうか。1994年すでにモデルから絶対確実な知識は得られなくてもrobustな知識は得られることがあると考えていたのだがNorton and Suppeにうまく伝わらなかったのだろうか。1994年の論文の直接の議論の対象は放射性廃物処分場のアセスメントに使われるモデルであり、その分野の知見が気候に比べてrobustnessが低いという事情はあると思う。】

有用な科学的知識は、robustな特徴に限定し、モデルの縮約のされかたや不確かさを考慮して適切に組み立てられたものである。学術論文ではふつうこのような注意をしている。政治的論争ではrobustnessの限界を越えた主張がされて批判されることがある。それはモデルから得られる科学的知識の限界ではなく、科学的知識の誤用である。

気候変化のモデリングへの正当な挑戦は、モデリング一般に対してではなく、特定のモデルについて、それがどれだけよいものか、また、論じられている課題に応用するのが適切か、と問うことである。

文献

  • Stephen D. Norton and Frederick Suppe, 2001: Why atmospheric modeling is good science. In: Changing the Atmosphere: Expert Knowledge and Environmental Governance (C.A. Miller and P.N. Edwards eds., MIT Press), 67 - 105.
  • Naomi Oreskes, Kristin Shrader-Frechette and Kenneth Belitz, 1994: Verification, validation, and confirmation of numerical models in the earth sciences. Science, 263: 641-646.
  • Patrick Suppes, 1962: Models of data. In: Logic, Methodology, and the Philosophy of Science: Proceedings of the 1960 Congress (E. Nagel, P. Suppes & A. Tarski eds., Stanford Univ. Press), 252 - 261.