macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

自動販売機

現代日本はおそらく世界のなかでいちばん自動販売機が普及しているところだと思う。電車の切符の販売機など(この場合は、電車にのることが必要な人にとってだが)生活に欠かせなくなっていることも多い。個人差もあると思うが、わたしは、人と対面で買うこともできるものでも自動販売機を使うことが多くなってしまった。反省してみると、機械への抵抗感のなさに加えて、単純な商品と現金(定価)の交換のために人をわずらわせるのが気がひける、という気持ちがあるようだ。

しかし、大震災後の節電にからんで都知事に言われるまでもなく、世の中の自動販売機にはむだなものがあると思う。

とくに、市街地のうちではあっても住宅地などの細い道沿いに、カンやペットボトルにはいった飲み物の自動販売機をよく見かける。電気を使う機能の一部はお客が来てから動くのだと思うが、お客からの要求を受ける準備、防犯センサー、保温、照明の一部の電源は常にはいっているはずだ。場所のうちには(たとえばバス停など)需要の多そうなところもあるが、たいていは需要の少なそうなところだ。うろ覚えだし、その後事情が変わっているかもしれないが、こうなった原因は税金対策だと聞いたことがある。建物を営業中の店とみなさせることによって、休業中の店あるいは住宅などとされるよりも得になるらしい。もしそうだとすれば、意図しなかった税制の抜けあなが使われたということであり、抜けあなをふさぐ税制改正が必要だろう。ただし実際に需要のあるところとの判定が楽でないので、懲罰的にきびしくすることはむずかしいだろう。

鉄道の駅の中では、確かに飲み物を飲みたい人がよく通るので、販売機が役にたっていると思う。しかし、もし販売機がなかったら、人が飲み物を売る店が出ていただろう。

わたしは、同じものを同じ値段で買うならば、自動販売機のほうに行く習慣がついてしまったのだが、最近、ある駅構内で、今では数少なくなった人が売っている店で飲み物を買った。商品が同じではなかった。店では、今では少なくなったびん入りの牛乳などを売っていたのだ。自動販売機の牛乳は紙パックだ。

世の中にはびん入りの牛乳の自動販売機もある。1970年代に高校の構内で使った覚えがあるし、最近にはある有料の浴場の構内で見た。しかし、ガラスびんで売るときには、あきびんを、割れたりよごれたりしないように回収する必要がある。駅のプラットフォームのように知らない人の出入りのはげしいところでは、回収場所が売り手の目のとどくところでなければならないかもしれない。

おおぜいの人が勤務する職場の中にも自動販売機が置かれることがある。仕事のあいまに飲み物の需要はあり、外の商店はちょっと遠い。もし自動販売機がなければ、売り手の人が職場にたびたび出入りすることになるかもしれない。現代日本の職場は、その管理下にない人を出入りさせることに伴うリスクを心配し、自動販売機のほうを選ぶ傾向があると思う。(自動販売機でも中身を入れかえる人は出入りするのだが、その滞在時間は短く、職員との会話の機会は少ない。)

自動販売機にしても、使い捨て容器にしても、現代日本が資源を投入して人の労働を減らしてきた例と言えるだろう。わたしはそれになじんでしまっている。理屈では、今やその傾向を逆転させ、機械が使われる場面よりも人が対面する場面をふやしていくべきだと言える。ただ正直なところわたしの感覚はそれについていっていない。