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「河川流出モデル・基本高水の検証に関する学術的な評価」について

9月28日、日本学術会議の土木工学・建築学委員会の下に作られた「河川流出モデル・基本高水評価検討等分科会」の「河川流出モデル・基本高水の検証に関する学術的な評価」(回答)の公開説明会を聞いた。

これは科学者による政策決定への助言を日本学術会議というしくみを使って実現した事例として重要だろうと思う。【吉川弘之(2002)『科学者の新しい役割[わたしの読書メモ]参照。こういう観点で聞いていた人はほかにいただろうか?】アメリカ合衆国では、行政府または議会が科学アカデミーに諮問し、National Research Councilの下に委員会が作られて報告をするのはいつものことだ。しかし日本で学術会議がこのような使われかたをしたのは初めてではないか?

今年1月13日に国土交通省河川局長からあった審議依頼への回答であり、学術会議の任期に合わせて9月中に報告することになった。検討に時間のかかる話題もあると思うので、一般論として学術会議は専門分科会を次期に引き継ぐことを可能にしておく必要があると思うが、この事例の場合は期限を切られたから委員たちが対応を決められた面もあるかもしれない。

土木・建築委員会の下の分科会だが、委員には森林水文学、気象学の人もはいった。森林の保水能力、雨量の変遷およびデータ代表性が論点だったから当然のことなのだが、一学会でなく学術会議だからとれたメンバー構成だったと思う。ただし実際の委員はみな水文水資源学会のメンバーなので世間が狭いともいえる。しかし限られた期間で専門的検討をするために専門用語が通じるメンバーにするのも合理的な面もある。Jasanoff (1990)のFifth Branch [読書メモ]の成功例が対決的(adversary)ではなく見解の一致をめざす(consensus building)ものだったこととも合っている。

学術会議に求められる助言は、IPCCの場合と同じく、政策決定にとって有意義(policy-relevant)だが、政策をしばるもの(policy-prescriptive)でないものだろう。しかし、こういう立場をとっていることは、一般の人にはわかりにくいだろう。それは最後の質問者(しろうとの市民)と委員長とのやりとりに現われていた。(この種の話題のマスコミ報道に敏感な)市民から見れば、諮問の背景に、やんば【「八ッ場」と書くことを避ける理由は[別記事参照}】ダムの可否の問題があることは明らかだ。しかし、その問題は学術会議への諮問内容に含まれていないので、学術会議やその下の分科会としてはその問題には答えないのが筋なのだ。

分科会は、「基本高水」という概念を認めたうえで、国土交通省によるその数値の求め方が妥当かを、利根川の事例について、検討した。その過程で、この概念を治水行政に使うことの妥当性について疑問が生じたと思われるのだが、この件は問われていないので、答えを述べることはせず、付帯事項として行政の過程での検討を求めるにとどめている。【関東地方整備局が9月13日に目標流量を17000 m3/sとした[9月17日の記事参照]ことにはすでにいくらか影響が現われているのかもしれない。】

説明会の複数の質問者が説明を聞いても納得しなかったと思われ、わたしから見てもわかりにくかったのは、1947年のカスリーン台風のときの洪水の八斗島(やったじま)での流量が、流量観測に基づいた推定値は17000 m3/s だったにもかかわらず、「既往最大洪水流量の推定値」としては降水量に基づいて貯留関数法で求められた21100 m3/sが妥当だとしたことだ。貯留関数法よりも深く物理法則に基づいたモデルを使っても後者と同様な値が得られるのだが、しろうと考えでは、「どのモデルも観測流量を再現できていない」という状況にすぎないように見える。くいちがいは、上流の氾濫または河道貯留で説明可能であると述べられ、一部の河道区間について河道幅拡大を仮定した計算例も示された。ところが、カスリーン台風のとき氾濫が起きていたかどうかについて解釈が分かれているし、モデルでどういう氾濫あるいは河道幅拡大が起こるかについていろいろな可能性がありあらかじめどれが起こるか予想できない。それに加えて、「既往最大洪水流量の推定値」は「基本高水」を求める過程で必要となる量であり、「基本高水」は、「河川の基準点を通過する洪水で、まったく貯留施設による調整を受けず、自然状態のまま流下する洪水」とされている【事前質問への回答の論点8で、室田明編著(1986)「河川工学」(技報堂)からの引用】。ここから必然的に導かれるわけではなく類推がはいっていると思うが、貯留関数法あるいはその他の流出モデルで求めるべき流量は、実際に観測される流量ではなく、氾濫や河道幅拡大がないと仮定した場合の流量であるべきだという判断があったようだ。

また、モデルのパラメータは流量1万m3/s級の洪水では検証されているが、流量2万m3/s級では検証されていない、という問題もある。これについては、わからないとして終わりにするよりは外挿するべきだと考えた、そして複数のモデルの結果を比較して検討した、という説明があった。

「200年超過確率洪水流量」を求めるための「総合確率法」の説明と質問は短い時間ではかみあわなかった。確率の意味が共有されているかが疑問だった。委員になるような学者は多忙にちがいないので、ほんとうに理解を共有したいのならば、時間をかけて概念共有を確認することを職務とする人(コミュニケーターあるいはファシリテーター)が必要だろう。この事例に限らず疫学の問題などに関しても、確率の概念とそれをさまざまな人々がどうとらえているかに通じているコミュニケーターの需要はあるはずだ。しかし、もし相手が考えをかたくなに変えない人だとコミュニケーターの努力もむだになる。

さて、この分科会は、単純に諮問に回答したのではなく、中間で(当初の予定にはなかった)助言を行なっている。国土交通省に、新しいモデルによって高水流量の計算をやりなおすように助言したのだ。

国土交通省がこれまで河川行政の根拠として使っていた高水流量を求めた流出モデル(ここでは旧モデルと呼んでおく)のプログラム自体はあったが、入力データの調整過程の記録が失われていて検証不可能だった。分科会は、過去の不てぎわの責任追及には向かわず、前に進むことにした。国土交通省が新モデルによって過程を追跡可能な形で計算しなおし、それを委員が検討した。

新モデルは貯留関数法には変わりないが、流域の各地区を流出域と浸透域に分けるのをやめ、有効降雨を求めるプロセスと、貯留による有効降雨から流出への変換とを分離した。(ここでいう有効降雨とは、貯留関数法に特有の概念なのだと思う。説明を聞いただけではよくわからなかった。参考資料3を読んでいくらかわかったが満足でない。) 旧モデルではパラメータ決定時と適用時のモデル構成が一致しないという欠点があったが、新モデルではそれが解消されているそうだ。

委員による検討では、大学で研究用に開発された物理法則に基づくモデルを使って流量を計算している。国土交通省が新モデルを採用する機会に、よりすぐれていると思われる物理法則に基づくモデルを使うことを勧めなかったのはなぜだろうか。行政用と研究用の目的の違いがあるだろう。研究用モデルはたくさんの入力データを必要とし、それは必ずしもすべての流域で観測されていない。過去にさかのぼるならばさらに情報が不足する。また、適用可能であることが確かめられている対象流域の数も多くない。行政用には、同じ構成で多くの流域に適用可能であり、実績もあるものがほしい。それでいて、合理的な筋がとおっているものであるべきだ。それで貯留関数法のうちでの改良という方法をとったことは理解できる。

森林の保水能力に関する質問に答えて、森林水文学者が、利根川の第2次大戦後の森林の変遷が貯留モデルのパラメータ値を変更するほどの影響がなかったからと言って、森林の保水能力が小さいのではないのだと強調していた。日本の環境では、木が根を張っているから土壌が保たれる。土壌がなければもっと急に流出が起こり洪水ピークが大きくなるだろう。ただし、木がなくなってすぐ土がなくなるか、だいぶもつかは、地質条件などにより、花崗岩のはげ山と、ふつうの里山では違うそうだ。

専門外の人々が定性的には理解できるが定量的な知識はなかなか持たないことがらに関しては、過大評価、過小評価それぞれの伝説ができてしまいがちだ。森林の保水能力(あるいは「緑のダム」)はその代表例だと思う。専門家のもつ定量的知識の要点を多くの人に共有してもらう努力がもっと必要なのだろう。