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チベット・ヒマラヤの氷河は十億人の水資源なのか (ふたたび)

IPCC第4次報告書(2007年)の第2部会の巻には「ヒマラヤを含むアジア高地の氷河のとけ水に頼る人口がなん億人もいる」という趣旨の記述があるが、これはまちがっている。出典となる文献の知見に忠実に述べれば、「氷河のとけ水」を「積雪および氷河のとけ水」と訂正するべきだ。

[2010年1月28日の記事]の話題のくりかえしになるが、整理しなおして述べる。

IPCCの報告書には、もちろんまちがいはないほうが望ましいが、3巻合計約3千ページの本のまちがいを完全になくすのは至難のわざだ。IPCC報告書は完全無欠ではない。そう意識して、信頼しすぎないで使えば有用な情報源だ。またそう思えば、これの個別のまちがいをあげつらって基本的な論旨がまちがいだと思わせる宣伝につられないですむだろう。

IPCC第4次報告書の第2部会の巻のアジアの章(第10章)に、「ヒマラヤの氷河が2035年に消滅する」という見通しが述べられていた。これはまちがいだった。しかしこれはIPCC報告書のほかの部分の将来見通しに影響を及ぼしてはいない。

実は、同じ章に、(IPCC報告書のほかの部分に対しての影響ではないが) 世の中への影響という観点からもっと重要と思われるまちがいがある。

10.4.2 水循環と水資源
10.4.2.1 水利用可能量と需要
...
気候変動に関連した氷河融解は、水供給を氷河融解に依存しているヒマラヤ・ヒンドゥークシ地域の5億人および中国の2億5,000万人に深刻な影響を与えうる(Stern, 2007)。

[英語版483ページ、日本語版435ページ。日本語訳は国立環境研究所のもの(http://www.cger.nies.go.jp/ja/library/ipcc-ar4-wg2/index.html )によったが、「溶解」とあるところを「融解」に統一した。]

どうも、とくに欧米の人の間に、チベット高原を中心とするアジア中央部の高地の氷河が高地を源とする川の流域全体の水資源として重要だという認識があるらしい。源流に氷河があるような大河川にはガンジスも長江も含まれるから、その流域の人口を合計すれば簡単に10億人を越える。おそらく上記の引用文はそういう常識をもった人が特に疑問に思うことなく書いてしまったのだろう。しかし、ガンジスにしても長江にしても、下流を流れる水のうち源流から来るものの割合は多くない。大部分は流域に雨として降った水だ。流域全体の住民が氷河のとけ水に頼っている(したがって氷河が衰退すると非常に困る)という言説は現実にそぐわない。しかし、この言説は近ごろも再生産されている(たとえば『ナショナル・ジオグラフィック』2010年4月号特集の「解け出した20億人の氷河」という見出し[読書メモ])。それには、権威があるとみなされるIPCC報告書に上記の文がのったことも寄与しているかもしれない。

氷河のとけ水に依存している人々は確かにいる。それがほぼ唯一の水資源であるようなところに住んでいる人がなん万人かいるだろう。また、雨の年々変動が大きく、雨の少ない年には氷河のとけ水がないと水不足におちいるようなところに住んでいる人が百万人あるいは千万人の桁でいるだろう。しかし、億人、十億人というのは多すぎると思う。

IPCC第4次報告書よりもあとだが、実際に氷河が減ると水資源にさしつかえのおきそうな人口を見積もった論文としては、たとえば、Immerzeelほか(2010)のものがある。ただし、これの対象は5つの大流域(インダス、ガンジス、ブラマプトラ、長江、黄河)であり、氷河のとけ水の役割が相対的に大きいと思われるチベット高原の北側の内陸流域についての評価はされていない。

IPCC報告書10章からの引用部分であげられている参考文献「Stern (2007)」は、いわゆるスターンレビュー、イギリス政府の委託による、気候変化の経済への影響に関する調査の報告書だ。その目次から関係のありそうなところをさがすと、次の文章が見つかった。

Part II: The Impacts of Climate Change. on Growth and Development
Chapter 3: How climate change will affect people around the world
3.2: Water
63ページ
Melting glaciers and loss of mountain snow will increase flood risk during the wet season and threaten dry-season water supplies to one-sixth of the world's population (over one billion people today).

Climate change will have serious consequences for people who depend heavily on glacier meltwater to maintain supplies during the dry season, including large parts of the Indian sub-continent, over quarter of a billion people in China, and tens of millions in the Andes{23}. Initially, water flows may increase in the spring as the glacier melts more rapidly. This may increase the risk of damaging glacial lake outburst floods, especially in the Himalayas{24}, and also lead to shortages later in the year. In the long run dry-season water will disappear permanently once the glacier has completely melted. Parts of the developed world that rely on mountain snowmelt (Western USA, Canadian prairies, Western Europe) will also have their summer water supply affected, unless storage capacity is increased to capture the "early water".

In the Himalaya-Hindu Kush region, meltwater from glaciers feeds seven of Asia's largest rivers, including 70% of the summer flow in the Ganges, which provides water to around 500 million people. In China, 23% of the population (250 million people) lives in the western region that depends principally on glacier meltwater. Virtually all glaciers are showing substantial melting in China, where spring stream-flows have advanced by nearly one month since records began. In the tropical Andes in South America, the area covered by glaciers has been reduced by nearly one-quarter in the past 30 years. Some small glaciers are likely to disappear completely in the next decade given current trends{25}.

見出し文では、10億人以上の水資源に影響があると言っているが、それは氷河が減ることと積雪が減ることの両方を合わせた影響の話だ。

本文のうち前のほうの段落では、乾季の水資源を氷河のとけ水に頼る人々がいて、その数は中国では2億5千万人以上、アンデスでは数千万人と書いてある。(それから、気候変化に伴って氷河の融解が進むことに伴う問題点に移って、氷河湖の決壊の件、そして、氷河がなくなると乾季に水不足になることが述べられている。また雪どけ水の件も話題になっている。)

あとのほうの段落では、ヒマラヤ・ヒンドゥークシ地域の氷河が、アジアの大河川の水源となっており、それには5億人に水をもたらしているガンジスの夏の水量の70%が含まれる、とあり、また中国では人口の23%つまり2億5千万人が住む西部地域は基本的に氷河のとけ水に頼っているとある。(それから、この氷河の多くがいま後退・縮小しているという話になる。)

あとの段落についている脚注25の文献Coudrainほか(2005)はアンデスに関するもので、中国やインドの件の根拠とは思えない。前の段落の脚注24の文献Agrawalaほか(2005)は氷河湖決壊の問題に関するものだ。どちらの段落についても、中国とヒマラヤ・ヒンドゥークシの人口の話の情報源は、脚注23の文献Barnettほか(2005)と考えてよさそうだ(「2億5千万人」が2回出てくるがひとつの情報だろう)。しかし、引用の過程で表現が変わって意味がずれているところがあるようだ。

こういうことならば、IPCC報告書第10章は、Stern (2007)経由で孫引きするのではなく、Barnettほか(2005)を参照するべきだったと思う。

Barnettほか(2005)の文献は、同じ第2部会報告書の水資源の章では、直接引用されている。

第3章「淡水資源とその管理」
3.4.3 洪水と干ばつ
...
地球上の人口の6分の1以上が氷河や季節的な積雪からの融水に水供給を頼る中、将来の水利用可能量について予測された変化の結果は,確信度が高く、既にいくつかの地域ではそう診断されており、不利で、厳しいものとなるだろう。乾季における主要な水供給源として氷河の融水に大きく頼る地域では、干ばつの問題が予測される(Barnett et al., 2005)。[英語版187ページ、日本語版122ページ]

Barnettほかの論文は、題名からもわかるように、主として水資源として積雪に頼る人々がどこにどれだけいるか、それが地球温暖化によってどういう影響を受けるかを論じている。この部分は水文学者のLettenmaierとAdamのオリジナルの仕事で、あとで別の論文になっている。世界全体の陸地について計算できるデータを選んでいるので地域別の論文に比べればあらっぽいけれども、2005年当時の世界の知見を代表する研究と言えると思う。そして論文の終わりのほうで少し、水資源として氷河のとけ水が重要であるいくつかの地域にふれていて、そのうちにはアンデスとならんでヒマラヤの話もある。この部分は多数の研究の結論らしいところを列挙したもので、Barnettたちが内容に深入りして検討したようではない。

IPCC報告書3章が地球の人口の6分の1つまり10億人以上が「氷河や季節的な積雪からの融水」に頼っているというのはこの論文の定量的な部分の結果をふまえているが、その大部分は積雪からの融水に頼っている人口なのだ。

ところが、3章から引用した段落の最後の文は「氷河の融水」になっている。ただし氷河の融水に依存する人口は示されていない。これはBarnettほか論文の終わりの部分の次の文に由来するようだ。また、Stern経由で参照された10章の2億5千万人という数値の根拠も、この「中国の全人口の23%」らしい。

In China, 23% of the population lives in the western regions, where glacial melt provides the principal dry season water resource{43}.

「中国の全人口の23%が住む中国西部ではglacial meltが乾季の水資源として重要だ」と言っている。この表現には二つ疑問がある。ひとつは「glacial melt」は氷河(glacier)のとけ水なのかだ。英語でいうglaciologyは日本語で「雪氷学」であり、氷河も含むが積雪や海氷をも含む地球上の氷に関する学問だ。形容詞のglacialが「雪氷の」という意味ならば、glacial meltが雪どけ水を含んでもよいはずだ。もっともglacialは「氷河の」と解釈するほうが順当だとは思う。もうひとつは、この文で示されている人口は中国西部の全人口であって、中国西部で氷河のとけ水に頼っている人口はこれよりも少ないだろう、ということだ。(文脈からほしいのは実際に氷河のとけ水に頼る人口なので、地域の全人口を示されては話題がそれて困るのだが。)

残念なことに、このあいまいさは、参考文献にさかのぼって解消することができなかった。注43はGao and Shi (1992)の文献への参照だ。同僚から中国の研究者にたずねてもらったところ、高ほか(1992)の中国語の論文をさしているらしい。これは中国西北部の水資源に関する総説だ。氷河については2ページめで簡単にふれられていて、水資源供給の年々変動をならす働きをするので重要だと言ってはいる。氷河のとけ水が河川流量のうちどれだけかの見積もりはある。しかし氷河のとけ水に依存する人口の数値はないし、中国西北部の全人口さえ、ざっと見たところでは見あたらない。この論文にわたしが見ていない英語版があってその序論部分に書かれている可能性がなくはないが、別の文献にあった情報をBarnettたちが出典をかんちがいした可能性が強いと思う。

その直前には次の文がある。

The hydrological cycle of the region is complicated by the Asian monsoon, but there is little doubt that melting glaciers provide a key source of water for the region in the summer months: as much as 70% of the summer flow in the Ganges and 50-60% of the flow in other major rivers {40,41,42}.

氷河のとけ水が夏の期間の水の重要な部分をしめる、とくにガンジスでは夏の流量の70%、ほかの重要な川では50%から60%をしめる、とある。これがガンジスの中流・下流ならばとてもありそうもないことだが、上流で、しかも「夏」というのが雨期入り前の暑い時期をさすならば、ありうることかもしれない。

ところが、注40-42の文献はいずれもインダス川の支流に関するものだ。41番(Singhほか, 1997)はChenab川、42番(Singh and Jain, 2002)はSatluj川について河川流量中の「とけ水」の割合を見積もっている。40番(Singh and Bengtsson, 2004 [このBengtssonは気象再解析の先駆者とは別人])は42番で扱った流域の水収支が気候変化(気温上昇など)に伴ってどう変わるかを評価している。示された「とけ水」の量には氷河のとけ水も含まれはするものの、主に雪どけ水であると考えて見積もりが行なわれており、氷河のとけ水を分けて評価しているわけではない。しかも、インダス川はBarnettたちの文章では「other major rivers」に対応すると思われるが、どの参考文献も「夏の流量のうちでとけ水が50-60%貢献する」と明確に言ってはいないようだ。たとえば41番の文献が雪と氷河の寄与分を見積もっているのは年平均の河川流量についてであって季節ごとに分けた見積もりはない。さらに、その前にふれているガンジス川の数値は、あげられたどの文献にも出てこない。つまり、この段落の定量的な数値はそこに示された文献によって裏づけられない。

このように、Barnettほかの論文は、中国の件も、インドの件も、文献参照からたどれる形で根拠が示されていないことがわかった。おそらく意図的にうそをついたのではなく、文献をとりちがえたり、氷河と積雪を混同したりしたのだと推測するが、著者も、雑誌(この場合はNature)の編集者も、点検が甘くなっていたにちがいない。それがIPCC AR4の材料に使ってもらうために早く出版してもらうことを意識しすぎたからならば、IPCCに責任があるわけではないが、IPCCに採用されたがる研究者や出版社の態度に問題がある。(事故をおこした中国高速鉄道にあったのと同質の問題ではないだろうか。)

そして、IPCC報告書第3章の著者は、おそらくNatureのブランドを信頼して内容の質の評価はしっかりできているだろうと思ってそのまま使ったにちがいない。IPCC報告書を書く人には、対象とする文献の参考文献の内容まで確認する時間はふつうとれないだろう。しかし、報告書には査読がはいるのだから、その過程で現地の事情を知る人が内容を見て修正を勧めることはあってもよかった。第10章のほうは水文の専門家が査読しなかったようだ。第3章のほうは水文の専門家が著者にもはいっていたし査読者にもいただろうと思うが、ここで指摘した部分の本文はまちがいではないので、誤解を招きやすいことは見のがされたのだろうか。

今後に向けて対策を考えると、まず、IPCCまたはその各章の著者グループが、査読能力があってあまり忙しすぎない人と契約して査読をしてもらうべきだろうと思う。それから、報告書発行後にまちがいが見つかることも、(可能ならば避けるべきではあるが)起こりうることとして、報告書を参照する人に訂正が必ず伝わるような手を打つべきだろう。

文献

  • S. Agrawala, S. Gigli, V. Raksakulthai et al., 2005: Climate change and natural resource management: Key themes from case studies. In: Bridge over troubled water: linking climate change and development (S. Agrawala ed.) Paris:OECD, 85-131. [わたしは見ていない。]
  • T.P. Barnett, J.C. Adam and D.P. Lettenmaier, 2005: Potential impacts of a warming climate on water availability in snow-dominated regions. Nature 438:303-309.
  • A. Coudrain, B. Francou et al., 2005: Glacier shrinkage in the Andes and consequences for water resources. Hydrological Science Journal 50:925-932. [わたしは見ていない。]
  • Q. Gao and S. Shi, 1992: Water resources in the arid zone of northwest China. J. Desert Res. 12(4):1-12. [Barnettほか2005の参考文献。高ほか(1992)と同じものと思われる。]
  • 高 前兆, 史 勝生, 温 培安, 李 烈, 郝 美玲, 1992: 中国西北干旱地区的水資源。中国沙漠 12(4):1-12.
  • W.W. Immerzeel, L.P.H. van Beek and M.F.P. Bierkens, 2010: Climate change will affect Asian water towers. Science 328:1382-1385.
  • P. Singh and L. Bengtsson, 2004: Hydrological sensitivity of a large Himalayan basin to climate change. Hydrol. Process. 18:2363-2385.
  • P. Singh and S.K. Jain, 2002: Snow and glacier melt in the Satluj River at Bhakdra Dam in the western Himalayan region. Hydrol. Sci. J. 47:93-106.
  • P. Singh, S.K. Jain and N. Kumar, 1997: Estimation of snow and glacier-melt contribution to the Chenab River, Western Himalaya. Mount. Res. Develop. 17(1):49-56.
  • N. Stern, 2007: Economics of Climate Change. Cambridge University Press, 692 pp. http://webarchive.nationalarchives.gov.uk/+/http://www.hm-treasury.gov.uk/stern_review_report.htm