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IPCCとそれに関係する科学の自律性について

IPCC (気候変動に関する政府間パネル)は、政策決定者のために科学的知見を整理して提供するが、政策をしばることはしない、という位置づけで作られた。このようなしくみによって、科学者が、科学者としての規範を曲げずに活動しながら、政治に影響を与える道が開かれた。ただしそれは間接的な影響に限られる。(Miller 2004; 宗像 2007。なおBolin 2007はこのしくみを作るのに学者側から最も貢献をした初代議長の回顧録。)

IPCCの基本的な仕事は、学術論文(など)として公表されている内容をもとに現在の世界の科学的知見を述べることだ。IPCCの影響力が小さいならば、どんな学術論文が出版されるかはIPCCには影響されずに起こるので、IPCCにとって、材料を集めることのむずかしさを別とすれば、公平性を保つことはむずかしくないだろう。しかしこれではIPCCが世の中の役にたつことも少ない。

ところが、IPCC報告書が有用な文献であると認められると、科学者の間で、IPCC報告書に採用されることが名誉であると感じられるようになる。すると、それは研究テーマの選択や論文を書く際の話題のしぼりかたに影響するかもしれない。(IPCCと直接関係なく、気候変化にかかわる人間社会の問題解決に貢献したいという動機もあり、区別はむずかしいが。) さらに、研究費を出す各国の機関も、自国の研究成果がIPCCにより多く採用されることが望ましいとして、それが期待される研究に予算をつけることがある。(資金提供機関に研究の結論に対する期待があって、それが研究者に影響を与えると、研究の公平性にとっては重大な問題だが、ひとまずここでは結果がどうころんでもよいとして推進する機関の場合を考えよう。) IPCCの存在は、科学をある方向に誘導していることになる。しかし、この範囲ですめば、科学が自律性を失うというほどではない。

IPCCの結論にあまり賛同しない勢力も、国連のもとの政府間組織であるIPCCの権威を認めたうえで、IPCCにかかわる個人が不適任だと批判する態度をとった。第2次報告書が出された直後の1996年、第1部会の巻の第8章の編著者Benjamin Santerが、Frederick Seitz, Fred Singerをはじめとする温暖化懐疑論者たちからいじめられたが([Oreskes and Conway (2010)の読書ノート], [Pearce (2010)の本の読書メモ])、そのときのSeitzやSingerは、SanterがIPCCのルールに違反したとして非難したのだった。それに対してBolin議長を含むIPCC関係者の多くがSanterの対応は正しいとした。Seitzたちは議長をも非難したはずだが、IPCCの制度を倒そうとはしなかった。アメリカ合衆国の共和党政権はIPCCの知見にもかかわらず温室効果気体排出削減に消極的だったが、IPCCに反映されることをねらった科学研究に資金を出し続けた。(知見は対策を決められるほど確かになっていないからもっと研究が必要だという理屈があったようだ。)

IPCC報告書の著者は、新たな研究をするのではなく、既存の文献をもとに報告書を書く。しかしそれは、文献の結論だけを集めて編集するような作業ではない。ある対象領域の知見をレビューすることだ。そこで、文献の情報の不ぞろいなところをそろえるような作業が必要になる。数量の単位換算や原点をずらすことなどならば、引用作業のうちとみなされ、出典としては換算前の数値がかかれた文献名があげられ、換算した人の名前は表示されないだろう。しかし、もう少し複雑な思考が必要なこともある。たとえば、「世界の全陸地の総量がほしいのだが、観測値がそろっているのはそのうち20か国のぶんだけだ」というようなことが起こりそうだ。事務的に文献情報をまとめることを職務と心得る著者ならば、「世界を代表する数値は得られていない」と書いて終わりにするだろう。しかし著者が科学者ならばたいていそれでは気がすまない。かと言って、20か国の数値から全世界の数量を推計することはIPCCの著者の権限でしてよいことではない。幸か不幸か、IPCCの著者はふつう、本来の勤務先を持っていてボランティアでIPCCの仕事を兼ねている。IPCCの仕事と並行して本務先の仕事として研究論文を発表することは、本務先の期待にも合っているし、IPCCからも反対されない。そこで、本務先の仕事として推計を行ない、査読を通って論文として世に出れば、IPCCの報告書で堂々と引用することができる。「お手盛り」だという批判はあるだろう。しかし多くの科学者が、知見が何もないと述べるよりも、レビューするという動機をもった科学者が整理した結果がもりこまれたほうがすぐれた報告書だと思うだろう。(そして、IPCC報告書の執筆体制は、各章の編著者(coordinating lead author)を複数にすることによって、ある程度のチェック機能はもたせている。性悪説に立つと、名目上複数でも、そのうちで強い権威を持っている人は勝手なことができるのではないか、という批判はできる。IPCCの組織原理は(素朴な性善説ではないが)一種の性善説に立っているといえる。)

IPCCがきっかけとなって、その著者に限らない科学者の活動の組織化が進むことがある。そのおそらく最大のものは、CMIP (結合モデル相互比較プロジェクト、世話役はアメリカのエネルギー省傘下の研究所PCMDIでウェブサイトはhttp://cmip-pcmdi.llnl.gov )だ。国際共同事業だが資金源は各国まちまちで、日本では文部科学省の21世紀気候変動予測革新プロジェクト(http://www.jamstec.go.jp/kakushin21/ )が中心となっている。IPCCと直接関係ない比喩をすると、自動車の燃費(エネルギー利用効率)を知ろうとしたとき、A型車は高速道路、B型車は市街地を走った測定値だけでは比較した議論は困難だ。一定の走行条件で実験してみることによって、機種の違いと走行条件の違いを分離して理解することができる。気候モデル(大気海洋大循環モデル)という計算機上に実現された実験装置についても同様なことが言えるので、各研究機関がなるべく設定をそろえた実験をし、結果のファイル形式もなるべくそろえて提出して、合わせて解析しやすいようにした。IPCC第4次報告書に採用されたCMIP3の温暖化予測型シミュレーションは、設定にIPCCの専門分科会が2000年に発表したSRES排出量シナリオを使ったので、IPCCの直接の影響がいなめないが、IPCC第5次報告書に間に合うように進行中のCMIP5では、IPCCとは独立した組織が作ったRCPという濃度シナリオを使っており、IPCCの業務ではなく科学者(および各国の研究費提供機関)の自主的な活動だということが明確になったと思う。CMIPはもともとIPCCでいえば第1部会の話題である気候変化のしくみの解明をめざした共同研究だったのだが、IPCC第2部会の話題である気候変化が生態系や社会におよぼす影響の評価をめざす研究者も、将来の気候変化のシナリオとして予測型シミュレーションの結果を使いたい。この際になるべく特定の気候モデルに依存したくないので、多数の気候モデルの計算結果をいっしょに使えるCMIPは重宝されている。

さて、2010年初めに、IPCC第4次報告書のまちがいがいくつか指摘された[2010年7月16日の記事]。そのうち少しだけがはっきりまちがいだったのだが、証拠不充分な主張と思われるものもあった。それはいずれも、第2部会の報告書の中の問題だった。第1部会関係者のうちには、もう少していねいな表現ではあったが、第2部会報告書を初めて見て質の低さにあきれた人もいたようだ。第2部会関係者から見れば、第1部会関係者は第2部会に要求された問題のむずかしさがわかってない、ということになるだろう。

わたしは正直なところ、第1部会報告書はかなり読んだが、第2部会報告書は拾い読みしかしていないので、評価に自信はないが、次のようにとらえている。

第1部会には、報告書を自然科学者の考えで構成する文化があり、IPCC全体からもそれでよいとみなされている。科学的知見が得られていることをレビューすればよく、よくわからないことを無理して記述する必要はない。たとえば、第4次報告書の第1部会の巻では、ヒマラヤを含む世界の山岳氷河について、これまで数十年の変化の実態に関する知見は述べているが、将来見通しについては海面変化の文脈で世界の合計融解量の見積もりを述べるだけにとどめている。気候問題一般のうちで、地球温暖化は全球平均で見えることを特徴とする現象なので、極論すれば、第1部会の義務は全球平均を論じることであり、ほかのことを論じるか論じないかは著者集団の自由裁量なのだ。(実際のIPCC第1部会には各地域別のことも述べよという期待がかかっているが。)

第2部会の報告書も科学的知見をまとめたものにはちがいないのだが、そこで何を話題にするかは、科学というよりはむしろ地球温暖化問題に関する社会からの期待で決まっている。気候の影響は各地のローカルな気候の影響なので、全球平均の量ではすまず、それより不確かな各地域別の気候変化を論じなければならない。政府代表からは自分の国に役立つことを入れてほしいという期待がかかる。しかし、著者の人数にも限りがある。そこで世界全体を大きく分けて「アジア」のような地域を論じることになる。(地域内をしっかり論じられる人を確保するためには、さらに4つくらいに分けたほうがよいと思うが、そうすると世界の地域の数が多くなりすぎるだろう。) また、第4次では、そのうち特徴のある小地域の事例をいくつか論じることになり、そのひとつとして「ヒマラヤ」が選ばれた。(事例なのだから、氷河も社会もよく調査されているどこかの谷に限ってしまえばよかったのだと思うが、キーワードとなったヒマラヤ全体を論じようとして、不確かな知見を確かだと言ってしまう失敗をしてしまった。) 科学者としては、社会からの期待にうまく答えられる科学的知見が必ずしも存在しないことを正直に述べ、社会はIPCCへの期待をその状況に合わせて調節するべきだと思う。

第3部会報告書はわたしはほとんど読んでいないのでさらに自信がないが、次のようなことを思う。この部会で扱う科学の大部分は工学あるいは社会工学なので、実行可能な方策を得るという方向への誘導はあって当然だろう。ただし、合理的な選択肢が複数あるときに、その間の中立性が期待される。また、この部会の話題は人間の行動に関するものなので、科学的知見とそれを述べる各人の利害関係とを切り離すことがとてもむずかしい。第3部会は、著者に石油会社の人も環境NGOの人も含めることによって、ある程度バランスをとっている。おそらく、世の中の意見の広がりに比べると幅が狭くなっているだろう。それはIPCCという組織の必然であって、欠陥ではないと思う。IPCCの意義を疑ってかかる人は初めから参加しないし、意見が違う人との間で(幅をもった)合意という形で報告をまとめる作業にやる気が起きない人はいったん参加したとしても抜けてしまうにちがいないのだ。

文献

  • Bert BOLIN, 2007: A History of the Science and Politics of Climate Change: The Role of the Intergovernmental Panel on Climate Change. Cambridge Univ. Press, 277 pp. [読書ノート]
  • Clark A. MILLER, 2004: Climate science and the making of a global political order. States of Knowledge: The co-production of science and social order (Sheila JASANOFF ed., London: Routledge), 46 - 66.
  • 宗像 慎太郎, 2007: 地球環境問題と科学的不確実性。現代思想, 2007年10月号(35巻12号), 178 - 186.