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「事前警戒原則(予防原則)」「最悪のシナリオ」を考えることのむずかしさ

将来の予測には、どうしても不確かさがつきまとう。しかし、不確かさが大きいということは、何もわからないのと同じではない。人間社会の意思決定では、不確かな知識を、どのような不確かさがあるのかを理解しながら使っていくことが必要だ。

その中でリスク評価という考えかたがある。リスク評価の全体像を述べることはむずかしい。リスク評価のうち代表的な考えかたのひとつとして次のようなものがある。複数の事態が起こりうるとき、それぞれの起こる確率と、それによる損害をそれぞれ定量化して、確率の重みで平均した損害の期待値を求める。人がとりうる方策によって、同じ事態が起こっても損害の値が変わってくるので、損害の期待値も違う。このとき損害の期待値が最小になるような方策がよい方策だ、と考える。この考えかたはよく使われるのに名前が決まっていないようなので、仮に「リスク期待値最小化原則」と呼んでおく。

(ここで使った「期待値」という用語は統計学用語で、望ましいという意味は含んでいない。損害には人の命にかかわるものも含む。それを定量化することに抵抗を感じるのは当然だがあえて定量化するのだ。量の次元をそろえる際には金銭の単位にすることが多く行なわれる(違う国・時代にわたって比較することはむずかしいが)。人の命にかかわる問題に限る場合は死者数をとることもある。損害と利益を通算すべきか損害だけを数えるかという問題もある。)

これに対して、小さい損害はたいした問題ではないが、大きい損害(大災害)は避けたいという考えもある。その場合は、それぞれの方策にとって損害が最大となる事態に注目し、複数の方策のうちでその損害の値が最小となるものがよいと判断することになる。

これは、リスクの定量化が考えられるよりも古くからある、安全側に寄った判断をする、ということに対応する。英語でprecautionary principleと言われる考えかたである。日本語では「予防原則」と言われることが多い。しかし「予防」は感染症の予防など、有害なことが起こるのを防ぐことをさすのが適切で、英語ではpreventionに相当する。平川(2010)にならってprecautionary principleを「事前警戒原則」と表現することにする。

この事前警戒原則は、社会的意思決定をするときに考慮に入れるべき考えかたのひとつとしては、いつも重要だと思う。しかし、これをほんとうに原則として採用しようとすると無理が生じることが多い。

起こりうる事態が、(片手にせよ両手にせよ)指で数えられるくらいの数のシナリオでじゅうぶんよく代表されるならば、そのうち最悪のシナリオでの損害を最小にしようという原則をとるのがもっともだろう。

しかし、起こりうる事態を連続量の変数で代表させるとすれば、シナリオの数は原理的に無限になる。そして、損害を与える原因の指標となる変数に関する予測は、「すその長い」確率分布をもつ形になることが多い。異常に大きな(または小さな)値をとる確率は非常に小さいがゼロとは言いきれない、というものだ。最悪のシナリオは非常に確率の低いシナリオになってしまうのだ。しかも、非常に低い確率の値については推定の不確かさも大きく、確率の桁(たとえば百万分の1なのか、一億分の1なのか)も自信をもって言えないことが多い。

このような場合に現実的な事前警戒原則の適用のしかたは、「非常に低い」とみなせない確率を伴うシナリオに注目し、そのうち損害が最大となるものに注目することだろう。

実際には、客観的な確率の見積もりができないことも多い。その場合は、主観的確率を使うべきだろう。ただし主観的と言っても、確率の理屈に合っていることと、対象の認識として適切であることの両面で、よい確率の見積もりができるようにするためには、訓練と、相互評価が必要だろう。(わたしはそれを実際にできるほどわかっていない。しかし、むしろ、どういう課題があるかを述べるのがわたしの役まわりかと思っている。)

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