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気候決定論ではいけない。気候影響評価よりも、将来歴史可能域評価をするべきではないか?

気候モデルによるいわゆる温暖化予測実験の結果を影響評価に活用しようという研究集会に出席しました。IPCC第5次報告書をにらんだいくつかの研究計画が背景にあるものです。ただし、わたしの日程が大学で担当している授業と重なってしまい、途中までしか出席できず、主催者・発表者のかたには失礼いたしました。

そこでの直接の話題ではなくて、ちょうど読んでいたほかのものがきっかけですが、わたしは、「気候モデル出力をもとに社会へのインパクトを計算するというアプローチにこれほど多くの人が集中的にかかわるべきなのだろうか」と疑問を感じています。(わたしは温暖化懐疑論者ではありませんが、温暖化研究懐疑論者かもしれません。[2011-01-28加筆: 温暖化研究否定論者ではありません。もしそうならば今の仕事をしていないはずです。])

このコメントは、そういう研究をすると言って予算をもらっているかたがたではなく、予算をつける立場のかたか、研究テーマをさがしているかたに言うべきことかもしれません。

読んでいた文書は、イギリスのEast Anglia大学のMike Hulme (ヒューム)さんが個人ウェブサイト http://www.mikehulme.org の2011年1月11日の記事からリンクしている「Reducing the future to climate: a story of climate determinism and reductionism」というもので、Osirisという科学史の雑誌に投稿した原稿だそうです。Hulmeさんが2009年に出したWhy We Disagree about Climate Changeという本[わたしの読書ノート]にも書かれていた論点のひとつだと思いますが、問題をしぼって書かれています。

それは、人間社会の将来を考える議論が、気候還元論(climate reductionism)、つまり、気候変化がすべてを決めてしまうかのような議論に陥っていないかということです。もともと、インパクト評価の議論が始まったときには、気候の変化と社会の変化の両方の影響があることは明らかなのですが、社会について明確な理論的根拠をもつ予測ができる見通しがないので、試みに気候だけが変化するとして考えてみよう、ということだったはずです。それが試算ではなく予測として伝わり使われているのではないでしょうか。それは研究者の意図ではなく伝える人の誤解かもしれませんが、そう伝わりやすいという経験をふまえて発信側も考える必要があるでしょう。

HulmeさんはTyndall Centre for Climate Change Researchのもと所長であり、その名前をつけた人だそうで、もちろん人間活動による地球温暖化を軽視する立場ではありません。しかし、インパクト評価や社会を含む将来予測に関しては、今の研究の路線を続けるのではなく、気候と社会との関係のとらえかたを改善することにつとめるべきだと言います。既存の枠組みのうちではvulnerability (脆弱性)と resilience の概念を重視します。

しかし、わたしは、インターネット上の温暖化懐疑論などをよく見る立場から考えて、Hulmeさんのような議論をそのまま広めると「温暖化は重要でない」という主張に悪用されるおそれがあると心配します。
社会の変化に不確かさが大きいということは、ある意味で「人間の可能性は無限だ」と言ってもよいのですが、それは人間社会はなんでもできるという意味ではなく、気候などの環境は、制約となっているのです。

Hulmeさんの議論の背景には、19世紀から20世紀前半の地理学の歴史があります。Ellsworth Huntington (ハンチントン)の気候決定論(気候が文明の水準を決定するという議論など)やRatzel (ラッツェル)の環境決定論が正しくなかったのであって、Vidal de la Blache (ヴィダル ド ラ ブラーシュ)の環境可能論(わたしはまだ読んでいないのですが、環境は人間社会が可能なことの範囲を決めているという議論だと思います)は妥当だったのです。(その後の地理学者が、環境決定論のあつものにこりて「気候が人間社会にどのように影響を与えるか考える」というなますを吹いてしまったのではないか、という反省もあるのですが....)

[2011-01-28加筆: Hulmeさんは最近の環境決定論的議論の例としてJared Diamond (ジャレド・ダイアモンド)さんの『銃・病原菌・鉄』[わたしの読書ノート]と『文明崩壊』[読書ノート]をあげていました。『銃・病原菌・鉄』のほうはわたしも環境決定論に行きすぎているような気がします(気候決定論ではありませんが)。しかし『文明崩壊』のほうは、環境としての気候も要因としてあげていますが、むしろ社会の対応を重視しており、環境可能論というべきものだとわたしは思います。]

気候は人間社会のゆくえを決定するものではないが制約するものである、ということを明確に述べていく必要があると思います。

そこで、今後の将来予測型研究の中で、気候などの環境要因に関しても、社会要因に関しても、人間社会にとって不可能なことを規定するものだけをとりあげて、人間社会が原理的にとりうる状態・経路の範囲を認識する、という種類のものが必要だと思います。数学用語を借りれば方程式よりもむしろ不等式による表現です。ただし、ほんとうに原理的に不可能なものに限るよりも、実現する見通しがまったくわからないこと、たとえば、今知られている基礎科学の基礎的部分がくつがえされること[注]や、今知られていない原理による技術(たとえば常温核融合)が実用化されることはないと仮定して、その仮定の条件を明示して考えたほうがよいと思います。

  • [注(2011-01-28)] 例として熱力学の法則がくつがえされる可能性を考えてみたのですが、これは「原理的に不可能」のほうに含めるべきだと思います。ここではもう少し個別的な法則性、たとえば気象学の教科書に書いてある台風発生のしくみの理屈がくつがえされる場合を想定します。

とくに、化石燃料資源の埋蔵量による制約は、数量は不確かとはいえ、無視できない存在であることは確かだと思います。(Lester Brownさんが言っていることだそうですが未確認で、だれが言ったとしてもおかしくないのですが)、中国が、今後、金銭的な意味でひとりあたりアメリカ合衆国なみに豊かになることはありうるかもしれませんが、ひとりあたり今のアメリカなみの数量の内燃機関自動車を使うことは、化石燃料資源の制約から見て、ありえないのです。

百年先くらいまでを想定して、このような「将来歴史可能域評価」[注]をするとしたら、はたして、気候の変化傾向の予測という作業を含めることは有意義でしょうか。気候は根本的には変わらずある変動幅の内にあるという程度でじゅうぶんでしょうか? 実際に検討を始めてみないとわからないと思います。

  • [注] 1軸が時間、他の軸は社会のとりうる状態とした抽象的空間の中に、歴史の経路がとりうる領域があり、その外は起こりえないというイメージで考えています。表現を考えていたら、近ごろ地球研(総合地球環境学研究所)で使われている「未来可能性」ということばに思いあたりましたが、意味が一部重なるものの同じではないと思ったので、わざと違えました。

ただし、将来歴史可能域評価にとっては必要ないとしても、気候の予測型シミュレーションや、それを使って気候だけが変化した場合の社会への影響を試算してみることが、社会にとって意味がないということにはならないと思っています。(その議論を続けると長くなるので、別の機会に。)