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CRU電子メール暴露事件(いわゆるClimategate) 1周年

昨年11月に、イギリスのイーストアングリア大学のClimatic Research Unit (CRU)の研究者の電子メールが暴露されてから1年がたった。事件の日付をひとつにしぼることはむずかしいが、11月17日にRealClimateというブログに不正な形でアップロードされたのがたぶん最初の出現なので、それを「記念」して1年後の11月17日にブログ記事を書こうといっている人たちがいる。わたしもそれに乗ることにする。

この事件(7月16日の記事Fred Pearce氏の本の読書メモ参照)は「Climategate」と呼ばれることが多い。明らかにウォーターゲート事件との類推だ。

確かになかまうちの電子メールを暴露するのは盗聴とよく似ている。税金でまかなわれている業務メールだから公開されて当然だという理屈を言う人がいる。それは役所や議会での(議事だけでなく)会話はすべて放送されるべきだというようなものだ。仕事の電子メールには公文書というべきものもあるが、共同研究者どうしの日常会話のようなものでたまたま離れた場所で働いているために電子メールという手段をとったものが多い。そういうメールも、もし法律違反や科学者の規範に対する違反が疑われた場合にそれを審査する人に見られるのは当然だろう。日常にも監査者に見られるようにしておくべきかもしれない。しかし、だれでも見られるところに公開されるというのは異常な事態であり、それが当然だと言われたらほとんどの研究者は仕事を続けるのがむずかしくなる。今度の事件でメールを暴露した人は、少なくとも情報をアップロードする際に発信者がわからなくなるサイトを経由した際には、違法なことをしているという意識があったと思う(それでも正義は自分の側にあると思っていたのかもしれないが)。

公費で行なわれる研究、とくに政策決定の根拠として使われる研究が、追跡可能(トレーサブル)であるべきであり、研究の過程が再現できるように、研究成果のデータだけでなく研究材料とされたデータも公開するべきだ、というのは正論だ。しかし、現実には、材料となるデータの提供者が再配布禁止などの制約をつけていて、研究者が勝手に公開できない場合もある。研究過程の記録もあとで他人が見てもわかるように残すべきだというのも正論だが、過去にさかのぼって非難されてもどうにもならないことがある。今後の計画に向けて考えるべきことなのだ。実際、世界の地上気温の総合データセット作成の計画(8月1日の記事とそのリンク先参照)には組みこまれようとしている。事件がこういう問題点を明示するきっかけになったと言えるかもしれない。しかし追跡可能性の議論は事件以前からあった。それを強調する手段として、メールを暴露し、メールの主をいじめるのは理不尽だ。

ウォーターゲート事件との類推をするならば、この暴露はだれがしかけたのか、それで得をするのはだれかを論じるべきだろう。(ウォーターゲートビルディングで働いていた民主党職員の働きぶりをあげつらってもしかたがないだろう。)

だれがしかけたのかはまだわかっていない。アップロードされた情報の選択から見て、カナダのSteve McIntyre氏のブログ「Climate Audit」の議論をよく知っている人にちがいない。もちろんブログの参加者全体ではなく、ごく少数の人たちの陰謀だろう。なお、「Nature」のニュース記事 http://www.nature.com/news/2010/101115/full/468362a.html でDavid Adam氏が伝えるところによれば、CRU内部者による暴露ではないことがわかってきたらしい。

2007年にIPCC第4次報告書が出て、二酸化炭素によって温暖化するという見通しがますます確かになってきたので(数量の不確かさはあるが)、マスメディアには温暖化対策の意義への懐疑論はあっても温暖化の科学的見通しを全面的に否定する議論は影をひそめていたと思う。ところが事件後、ブログなどのネット言論にも、新聞などのマスメディアにも、温暖化に関する科学があやしいという議論がふえた。McIntyre氏たちは地球温暖化に関する懐疑論者であり、CRUなどの科学者による研究成果の一部が正しくないあるいは根拠があやしいという主張もしている。さらに彼らはメール暴露を材料に科学者がささやかな捏造をしたと疑ったようだ(その後の調査で疑いは晴れたと言ってよいと思うが。7月16日の記事とそのリンク先参照)。しかし彼らは気候変化に関する科学全体を疑っているわけではなく、その大筋を認めたうえで細部で争っているのだ。ところが、それに悪乗りして、温暖化論全体が捏造だという根も葉もない批評までが、英語圏の新聞の署名入り論説などに多数まかりとおるようになってしまった。マスメディアまたはインターネットから情報を得る多くの市民は、この1年、過激な温暖化否定論にさらされることが多かった。科学者もがんばって発言したが、科学者いじめや温暖化否定論に対抗するために感情的になりがちだったので、かえって科学者への信頼をそこねる方向に働いてしまったかもしれない。

今年11月のアメリカ合衆国中間選挙で、共和党が勢力をのばしたが、そのうちでもいわゆる保守系の「Tea Party」という活動が活発だった。草の根運動とされるが、大資本家がしかけた「人工芝運動」ではないかと批評する人もいる。主張の要点は、政府の機能を縮小することと、キリスト教を尊重することにあるようだ。それに関連して、温暖化の見通しをもたらす科学を信頼しないことも、彼らの信念体系の一部になってしまったらしい。温暖化は重要な問題だと主張する国会議員候補者はTea Party活動家の支持を得られないために党の候補者になる競争で負けてしまったらしい。温暖化対策に関する政策選択の問題との区別がしにくいので議論がこみいるが、化石燃料を使いつづければ温暖化が起きるという見通しは科学的事実認識の問題であって政党支持によって違うべきではない。もちろん共和党支持者にもそう考える人は多かったのだが運動にならなかったようだ。

事件によって得をしたのは、政府の規制をきらう化石燃料多消費型の産業だろう。ただしそれは数年間の経済的利益だ。人類社会全体の共有地である地球環境への取り組みがまた数年間遅れることは、そういう産業に従事する人たちにとっても長期的には損失ではないだろうか。これは職業科学者としてでなく科学的知識をもった市民としての主張だが、少なくとも温暖化問題に関する限り、もし市場経済に最大限頼るとしても、炭素排出の費用を排出者に払わせるための規制が必要だ。

このような事件を「-gate」と呼ぶことにはわたしは気が進まないが、これをきっかけに「門」を考えることは有意義かもしれない。わたしはこの事件を1週間ほど知らなかったが、ちょうどその間にCollinsとEvansの「Rethinking Expertise」(専門家とは何か、もう一度考える)という本を読んでいた[読書ノート]現代社会に、専門家は必要なのだ。しかし、専門家がそれぞれの門の中にいて、専門外の人が門の外で批評しているだけでは、理解は進まない。専門家の用語を理解したうえで専門家とは違った立場で考える人(仮称「通門家」)が、もっとおおぜい必要なのだ。

(なお、IPCCが政府間機関であり見解の一致(consensus)を求めるものであるために、科学に本来あるべき批判がそこなわれているのではないかという心配は確かにある。一方でIPCCのような活動は必要なのだが、その価値観に染まらない科学活動もよく見えるようにしていかなければならないだろう。)