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科学者が社会に発言する立場をしわけてみる

科学者が、専門にも関係があるが政策決定にもかかわりのあるような話題について発言するとき、またその発言を聞くときには、どのような立場で発言しているのかを区別する必要がある。なん種類を区別するのがよいかはわからないが、ここでは仮に3とおりに分けてみたい。ただしその前に番外というべきものがあるので、番号は0から始める。

0. 特定の組織が得た結論を伝える。

たとえば「IPCCは何と言っているか」と問われたとき、IPCCのしかるべき立場にいる科学者ならばIPCCを公式に代表して答えるかもしれない。それ以外の科学者が代弁することもある。そのときはIPCCの報告書などを読んでまちがいなく伝える必要がある。(もしそれに自分の意見をつけ加えるとしたら、それは区別して次の2とするべきだ。)

1. 科学者共同体を非公式に代表して科学の到達した知見を述べる。

科学の知識がほかの知識と違った性格をもつのは、知識を科学者が個人ごとに持っているのではなく、同業者の共同体として共有していることにある。この共有された知識は、厳密に定義されたものではないので、共同体メンバーうしの間で厳密に同じにはならないが、多くの共通点をもつ。社会が科学者に問うとき求めていることは、この共有された知識をできるかぎり正確に説明することであることが多いと思う。

IPCCはこのような回答をするための手段として開発された社会技術だと言える。しかし、IPCCがカバーする分野でも、科学者はいつもIPCC報告書に頼るとは限らない。学術雑誌の総説論文や、教科書的な本もよく使う。その際にはその出版物や著者に対する他の専門家の評判も参考にして重みづけする。

2. 専門家個人として、科学の範囲内で言えることを述べる。

科学者の見解がまったくばらばらの場合や、ごく少数の科学者だけが考えている問題の場合は、科学者は、1の立場で問われても答えられないだろう。しかし、ときには、科学者個人としては、科学的方法に沿って考えたことを自信を持って言えることもあるだろう。他の科学者はこれを今の科学者共同体が到達した知見と認めないこともあるだろう。このような知識を提供することも、科学者がするべき仕事なのだ。ただし、1とは区別し、科学者個人の名前を明示して伝えるべきものだ。

さらに、まだ観測事実や理論がじゅうぶんでなかったり、原理的に知りえないことがらがからんでいたりする問題で、科学の方法に厳密にしたがった答えはだれもできない場合もある。そのような場合にも、関連する分野の知見をもった科学者の直観は、背景知識をもたないしろうとの直観よりは有益である可能性がある。それはそういうものとして明示して伝えるべきだ。

3. 科学的知識をもった市民としての考えを述べる。

科学者である個人は市民でもあり、民主主義国では主権者のひとりでもある。その立場で、政策に対して発言したいことがある。その発言のもとになる考えを組み立てる材料には、明らかに科学ではない政治的信条によることもあるだろう。本人の専門ではない分野の科学的知識をしろうととして使うこともあるだろう。そして、科学者として持っている専門知識を使うこともあるだろう。現代社会のかかえる問題は複雑であり、できる限り豊かな知恵を出しあうことが必要だ。科学的知識を持っている人が、社会の中での発言を望むのならば、その発言の機会を認めたほうが、社会としては得だと思う。

一方で、3の活動は科学者という職能の人が必ず負う義務ではない。(個々の科学者の職場で義務と規定される場合はありうるが、それは雇用契約や業務命令などの別の次元の問題だ。) 他方で、科学者は勤務時間外でも3の活動をしてはいけないという主張もまちがいだと思う。(勤務中にしてもよいかどうかは、雇用契約などの職場の条件しだいだ。) ある分野の科学的知見に、対立する政策の一方を有力とする効果がある状況では、政治的な動機によるこの両方の決めつけがありうる。どちらも不当だとわたしは主張したい。

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2と3の区別に関連して、事実認識と価値判断の区別について少し述べておきたい。

(これは本来、これまで述べてきたものよりももっと重大な違いだと思う。しかし、科学者の専門が政策にかかわらない自然科学であり、応用される先が政策決定である場合は、上記の2と3の違いと同じものとみなされて議論されることがある。)

科学は事実認識について論じるものであり、価値判断をするものではないと言われることがある。仮にその立場に従うと、科学者としての発言(上記1,2)は事実判断に限り、価値判断が含まれる発言は個人としてのもの(上記3)に切りかえるべきだということになる。ただし、このような態度をとれる科学は、世の中で科学といわれるもののうちでも、かなり狭い範囲のものだ。たとえば臨床医学を科学の外に置くことになると思う。IPCCの場合も、第1部会の仕事ならばこのような切り分けが可能だが、第2・第3部会の仕事ではむずかしい。

政策案の有効性などを論じる場合は、ある目標を追求するべきかどうかの価値判断をくくり出してしまえば、ある手段がその目標を達成するために有効かどうかは、科学的事実認識の問題として論じることが可能になるだろう。たとえば、IPCC第3部会は、理念としてはそのような立場で議論をしていると思う。しかし、少なくともどんな目標を考慮に含めるかというレベルでは、価値判断を離れることはできないだろう。工学(あるいは科学技術)の分野の多くがそういう性格をもっているのではないだろうか。(ここで工学というのは、伝統的に工学と呼ばれるものに限らない。(名前はよく練られていないが)気候変化適応工学や環境インパクト低減工学のような社会工学もあるべきだと思う。)