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アダム・スミス以後の経済学はジェームズ・ワット以後の経済学

地球温暖化を別としても、人間社会は化石燃料の消費を拡大しつづけることができないことは明らかだ。いわゆる「低炭素社会」(この表現はわたしが使いたいものではないが)あるいはecological footprintの小さい社会に移行しなければならないはずだ。しかし、実際にその方向に向かっているようには見えない。

なぜかと考えると、現代の多くの国の政策が経済成長を目標としているからだ。そして、これまでの実績からは、経済成長とエネルギー資源消費の拡大は切り離せないように見える[Ayres and Warrの本の読書ノート]

たまたま地質学者Hutton (ハットン, 1726-1797)の伝記を読んで気づいたことだが[Repcheckによる本の読書ノート]、Adam Smith (1723-1790)も、James Watt (1736-1819)も、Huttonと同じエジンバラに同じ時期に生活していた人なのだ。つまり、SmithとWattは同地域の同時代人なのだ。

そこで経済学者と政策家に注意をうながす標語を思いついた。アダム・スミス以後の経済学はジェームズ・ワット以後の経済学なのだ。化石燃料に頼れない社会の経済学の手本をそこに探しても見つからないのは当然だ。新たに発明しなければならないのだ。

ちょっと訂正が必要だ。日本語の「XX以Y」という表現は、XX自体をも含むのが正しいとされる。ところが、Wattが実用的な蒸気機関を発明してすぐにそれが普及したわけではない。未確認だが、Wattが特許を独占したので普及が遅れたという話を読んだ覚えもある。また、Adam Smithの「国富論 (諸国民の富)」を、わたしはめくっては見たもののしっかり読んでいないが、そこに記述された産業は農業、商業、手工業などであって、動力機械を利用した工業は含まれていないはずだ。そこで、次のように言うべきかもしれない。アダム・スミスよりも後の経済学はジェームズ・ワットよりも後の経済学なのだ。