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ヒマラヤの氷河に関するIPCC報告書のまちがい (つづき)

1月25日の記事への補足を述べる。同じことはくりかえさないので前の記事を参照していただきたい。

ヒマラヤの氷河に関する資料として、アメリカの雪氷学者Kargel氏が中心となって作られたプレゼンテーションファイル(pptもあるがPDF版(8 MB)にリンクしておく)を教えていただいた。名古屋大学の藤田耕史さんも氷の質量収支などの研究成果で寄与しておられる。ただしこれはしろうと向けにわかりやすいものではない。2009年12月のAGU (アメリカ地球物理学連合)という学会の大会の中で、人間活動によるblack carbon (すす)の氷河への影響が重要だという議論があり、その背景説明として、ヒマラヤの氷河の基礎知識を提供し、あわせて最近の話題にコメントしたものだ。IPCC第4次報告書の件は46ページ中40ページめにある。最後の3ページは文献リストになっている。

IPCCのまちがいと、それが報道される過程で起きたさまざまなまちがいの両方に関して、アメリカのYale大学の大学院生による詳しい評論(ウェブサイト編集者による紹介つき) Anatomy of IPCC’s Mistake on Himalayan Glaciers and Year 2035がある。温暖化問題を論じる科学者のブログで評判がよい。ただし、1月25日の記事で紹介したCogleyほかによる雑誌Scienceへの手紙で、インドの雑誌Down to Earthにふれていないのは、Cogley氏たちが知らなかったわけでも書き忘れたわけでもなく、Scienceの字数制限に対応するために文献数をしぼったせいだそうだ。(ただしわたしがこの情報をどこで得たか記録しそこなってしまった。この情報消失もこの件の「のろい」か?)

IPCC第4次報告書のまちがった記述の発端となった発言をしたインドの雪氷学者Hasnain氏は、IPCC議長でもあるPachauri氏が代表をつとめるTERI (エネルギー・資源研究所)に所属し、TERIが外国からの資金ももらって行なっている氷河の研究にかかわっている。そこで、「IPCCが氷河の消滅のおそれを大げさに述べることによって、TERIが研究資金を得るという意図的操作があったのではないか」という疑いをもつ人もいる。わたしは、そういう意図があったとは考えにくいと思う[注(*)]。 ただし利害の衝突の起きうる構造ではあると思う。しかしIPCC議長の兼業を禁止するべきであるか、となると簡単ではない。初代議長Bolin氏[読書ノート参照]はストックホルム大学教授をやめないことによってIPCCに貢献したとも言えると思う。

ヒマラヤの氷河の件でPachauri氏が非難されるもう一つの理由として、2009年11月にインドの環境・森林省の出版物(MoEF Discusson Paper, PDF 4 MB)として出たV.K. Raina氏の報告書、とくにそれが氷河に対する地球温暖化の影響は不明確だと述べたことについて、Pachauri氏がそれは質の低い研究だと頭ごなしに反論した、ということがあるようだ。「Pachauri氏の根拠としたIPCC報告書のほうがあやしいということは、Raina氏のほうが正しいことだ」という議論をする人もいる。だが科学的正しさの評価は裁判のように対立者の一方が負ければ他方が勝つという構造ではない。

Kargel氏ほかのプレゼンテーションファイルでは41ページめでRaina氏の報告書を論じている。とくに、氷河が数千年から1万年あまりの時間スケールで応答するという主張は支持できないそうだ。貴重な観測報告を含んでいるが、末端位置や移動速度などの数値をどうやって求めたかの根拠がはっきりしないところがある。また、Kargel氏が雪氷学のメーリングリストに書いた内容を参考に述べると、Raina氏の報告書には参考文献リストはあるものの本文のどの情報がどの文献に由来するのかが書かれておらず、根拠をさかのぼることがむずかしい。査読を受けた論文として投稿されたならば査読者の質問を受けて改訂され、もっと有用な情報となっただろう。いわばこれは論文の素材の段階のものなのだ。したがって、Pachauri氏の言いかたはまずかったようだが、Raina氏の報告にIPCC第4次報告書(とくに第1部会の第4章)をくつがえすような重要性はないというのは正しいと言える。

(*) 仮に氷河研究の費用を得るのが目的だとして、全球規模の温暖化と氷河との関係が深いと主張するか、逆にそれはまだわかっていないと主張するか、温暖化との因果関係があろうがあるまいが氷河の変動はその地域の水資源にとって重要なのだと主張するか、どれが得かは、相手にもより、いちがいには言えないだろう。