macroscope

( はてなダイアリーから移動しました)

ヒマラヤの氷河に関するIPCC第4次報告書のまちがい

IPCCの報告書にまちがいがあったことが話題になっている。

2007年に出たIPCCの第4次評価報告書(AR4)のうち第2作業部会の第10章「Asia」の10.6.2節「The Himalayan glaciers」(493ページ)の、次の1段落のヒマラヤの氷河の将来見通しに関する記述が科学的根拠がないものだった、ということだ。(日本語訳は国立環境研究所の次のサイトから公開されているものによっている。 http://www.cger.nies.go.jp/ja/library/ipcc-ar4-wg2/ [2010年7月29日、サイトのURL変更を反映した。])

ヒマラヤにある氷河は、世界のほかのどこよりも急速に後退しており (表10.9参照)、もし地球が現在の速度で温暖化し続け、現在の速度<での後退>が続けば、2035年までに、あるいはそれよりも早くそれらが消滅する可能性は非常に高い。その総面積は2035年までに現在の500,000から100,000平方キロメートルに縮小するであろう可能性が高い (WWF, 2005)。

この部分には雪氷学者は出版当初から疑問を持っていたが[注(1月29日)]、まちがった記述が生じた事情がわかったのはおもにカナダの雪氷学者Graham Cogley氏が調べたおかげらしい。Cogley氏をはじめとする雪氷学者が雑誌Scienceに送った手紙がScienceのウェブサイトにのったので、それにそって述べる。(J. Graham Cogley, Jeffery S. Kargel, G. Kaser and C.J. van der Veen, 2010: Tracking the Source of Glacier Misinformation. http://www.sciencemag.org/cgi/eletters/326/5955/924 )

参考文献にあがっているWWF(世界自然保護基金)の2005年の報告書から根拠をさかのぼると、消滅する可能性の件は、研究論文ではなく、ある科学者が語ったことを報じた雑誌記事に至る。記事が書かれた時点でその科学者の研究成果は出版されておらず、その後学術団体の報告書として出版されたものには2035年に氷河が消滅するといった見通しは述べられていない。面積が5分の1になるほうは1996年に出たKotlyakov編のユネスコの報告書に由来するようだが、これはヒマラヤだけでなく極地域を除く世界全体の氷河の話であり、それがこのままゆくと2035年ではなく2350年には5分の1になるだろうという話だった。

英語圏のブログなどで、温暖化問題を否定あるいは軽視しようとする人々が、このまちがいの指摘から話を広げて、「ヒマラヤの氷河は減っていない」あるいは「IPCCの報告書はすべて信頼できない」などという言説を広めているようだ。しかしそれは誤解または曲解だ。

まず、氷河の変動は個々の氷河によって違った条件があり、拡大している氷河もあることはあるが、多数を総合すると、世界の山岳氷河は縮小する傾向にあり、ヒマラヤも例外ではない。ただし、2035年までに消滅したり5分の1になってしまうほど急激な減りかたではない。2350年という数字も精密なものだとは思えないが、数百年という時間スケールはもっともだと思う。

次に、IPCC報告書のうちでこの部分の文献の確認が雑だったことは明らかだ[ただし下の注(1月27日)も参照]。IPCCも1月20日、今後はもっとしっかりするという趣旨の声明を出した。( http://archive.ipcc.ch/pdf/presentations/himalaya-statement-20january2010.pdf [2019-01-17 IPCCのウェブサイトが再編成され、これまで www.ipcc.ch にあったものは archive.ipcc.ch にのこされているので、リンクさきを変更した。])

ただし、このまちがいが生じたのは、IPCCのうちで、気候の生態系や人間社会への影響を評価する第2部会の報告書であり、そのうち地域別の部であることにも注意してほしい。

気候変化の科学的知見を扱う第1部会の報告書では、第4章で雪氷のこれまでの変化を扱っている。気候の将来見通しを論じる第10・11章では山岳氷河は海面変化に関する文脈で世界ひとまとめに扱われている。第2部会の報告書の前半の主題別の部では、淡水資源に関する第3章で氷河のとけ水の話がありヒマラヤの氷河にもふれている。以上の部分ではIPCCの標準どおりきちんと内容を確認した編集がされたようだ。(ただし、ヒマラヤの氷河が今後どうなるかという将来見通しは話題になっていない。)

気候変化の人間社会への影響(インパクト)を考えるためには、主題別だけでなく地域ごとに考えるべきだというのはもっともだ。しかし、さまざまな種類の影響に関する記述をすべて評価できる人はなかなかいないから、地域編の記述の質をよくするのはとてもむずかしいと思う。とくにアジアは広く、しかも欧米に比べるとまだ学術雑誌が発達していない国が多いので、その全体にわたってまちがいをチェックするのはたいへんなことだ。かと言って,アジアを細分してしまうと、おそらくその境界上にくるヒマラヤなどの問題は扱いにくくなる。

すでに作業にはいっている第5次報告書のために考えられる対策は、文献の確認を(当然ながら)ていねいにすること、科学的見通しのまとめをやや先行させ影響を考える人はそれを参照すること、また影響の報告書の原稿を自然科学者にも確認してもらうこと、などであり、すでに検討されているようだ。

しかし、その次の第6期に向けては、IPCCを、世界の各地域ごとに気候変化とその影響を評価することまでやる「大きいIPCC」にするのか、世界を大局的に見た気候変化とその影響をとらえることに専念する「小さいIPCC」にするのか、政府間の共同意志として決断する必要があるのではないかと思う。

また、インパクトを評価する人が科学に情報を求めても、科学がそれを提供できないことはよくある。その場合、専門の科学者の主観的見通しは、専門知識のない人の主観的見通しよりはましな情報だろう。科学者は、狭い意味の科学的知見と、主観的見通しを、区別を明確にしながら出していくことを期待されているのだと思う。

[注(1月27日)] IPCCは独自の研究をするのではなく、出版された知見を総括する。そのとき材料としてとりあげられるのは、原則として査読を経た学術論文である。WWFの報告書は査読を経た学術論文ではないので、これを使ったことが明らかにIPCCのルール違反だという批判をする人が多い。上に「原則として」と書いたところが省略されて伝えられることが多い(わたしもそういう表現をすることがある)からなのだが、実際はIPCCは査読を経た論文以外の材料を使うことも認め、その場合の手続きの指針を決めている。IPCC, 1999年, 改訂2003年: Procedures for the preparations, review, acceptance, adoption, approval and publication of IPCC reports (http://archive.ipcc.ch/pdf/ipcc-principles/ipcc-principles-appendix-a.pdf [2019-01-17 上記と同様にリンクさきを変更])の"Annex 2: Procedures for using non-published / non-peer-reviewed sources in IPCC reports" である。査読を経た論文以外の文献を材料として使う場合はその章の著者グループがその文献の質や妥当性を批判的に評価することを求めている。 (また、IPCC報告書の査読者が文献にさかのぼれるように文献のコピーをIPCC事務局に保管するという手続きも定めている)。

[注(1月29日)] 名古屋大学の藤田耕史さんの研究室のサイトhttp://hello.ap.teacup.com/snowman/ の「ヒマラヤの氷河 in IPCC-AR4」のページ参照。