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研究倫理・研究公正についての暫定的な考え

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたか、かならずしも しめしません。】

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大学の学部レベルで「研究倫理」をあつかう役まわりになってしまった。もしなにか事件がおきると自分の時間を多くふりむけなければならないかもしれないが、いまのところその必要はなさそうだ。ひとまず、この主題についておおまかな認識をもっておきたい。いろいろな問題がいりくんでいるので、わたしなりの整理をこころみてみる。

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わたしの所属する学部で「研究倫理」をあつかう必要が生じた直接の理由は、人をあいてにする研究について、論文を学術雑誌に投稿する際などに、研究倫理に関する審査をうけたことが前提とされることがあることだ。研究の方法としては、インタビュー、アンケート、被験者をつかった実験などがある。研究対象となる人や研究に協力してくれる人の人権を侵害しないようにしなければならない。そのための手をうっていることを確認することは、めんどうだが、必要なことなのだろう。

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それとは別の文脈で、ハラスメントを防止しようという話題が出てきている。研究組織内で、他のメンバー (とくに部下や学生) の人権を侵害しないように、ということなので、これも「研究倫理」の一分野とみることができるだろう。

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「研究倫理」は「研究不正防止」と同一視されがちだ。ところが「研究不正」というと、まずでてくるのは研究資金や設備などのつかいかたのルール違反だ。それは倫理の問題といえなくはないが、むしろ社会の構成員として法制度にしたがう必要があるということだろう。とくに学術研究は国や自治体からおかねが出ていることが多いから、そのようなおかねのつかいかたのルールがある。【ただし、そのようなルールの多くは役所の定型業務にあわせてつくられていて、そのままでは研究を進めるうえでこまるものもある。「研究不正防止」には、まもるのが困難なルールを変えさせるための運動もふくめるべきなのだと思う。】

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「研究公正」ということばを見ることがふえてきた。英語でいう research integrity の訳語らしい。Integrity は、分野によっては「首尾一貫性」とされたり「誠実さ」とされたりすることがあるが、「研究」につなげたばあいに何をさすのか、ことばだけではよくわからない。「研究公正」のキーワードでウェブ検索してみつかる文書の内容は研究不正防止であることが多い。そこでいう不正には上記の資金関係の問題もあるが、利害相反 (conflict of interest) の問題もあり、山崎 (2007) のいう「発表倫理」に関するもの (ねつ造、改ざん、盗用、authorshipの誤用) もある。

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ここではこの「発表倫理」の問題にすこしふみこんでみる。

【[文字づかいについての注] わたしは「捏」とか「竄」とか「剽」とかいう現代日本語では特定の語にしか出てこない字をおぼえたくないので、漢字かなまぜがきの「ねつ造」や「改ざん」という書きかたをし、「剽窃」ではなく「盗用」をつかう。 】

ねつ造や改ざんは、科学的知見の体系の信頼をそこなう。(特に新事実の発見をうたったばあいはそうだ。ありそうな事実を書いたばあいは、知見の大わくを変えるわけではないが、それをささえる根拠をあやしくするので、科学的知見の体系全体に対して悪いおこないだ。)

盗用と、(山崎さんのいう)「authorshipの誤用」は、科学的知見の内容をかえないが、だれの貢献であるかについてまちがった情報がひろまるので、人間社会とくに科学者集団に対して悪いおこないだ。(なお、図表などを盗用するとともにそれがもともと示していたものとちがうものを示すかのようにのべたばあいは、ねつ造・改ざんの同類でもあり、科学的知見に対して悪いおこないだ。)

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ここで「authorshipの誤用」というのは、論文などの著者にだれをふくめるかの判断が不適切であることをさす。山崎さんの本にも例があるが、ここではそれをはなれて、ちかごろ読んだもの (残念ながら書誌情報を確認していないが) にもとづいたわたしの認識をのべる。

研究に実質的に貢献していないのに著者になること。論文の著者になることが業績とみとめられる組織のなかで、実質的著者が、その上司などを、業績評価上の得点をあたえるために著者にふくめる、という構造のことがありがちで、"gift authorship" とよばれている。("guest authorship" もだいたい同じことらしいが、よくわからないので、わたしはつかわないことにする。)

研究に実質的に貢献しているのに著者になっていない人がいること。これは "ghost authorship" とよばれることがある。わたしがつかいたい表現ではないが便宜上つかうことがある。

【世の中で "ghost writer" という表現はよく知られている。名目上の著者にかわって文章を書き、名まえを出さない人をさす。ここでいう "ghost authorship" も、状況はちがうが構造は同じといえる。】

研究不正防止の文脈でまず問題になる "ghost authorship" は、利害相反のある研究者の名まえを隠すこと、たとえば企業から資金をもらった共同研究で企業所属の人の関与を隠すことであり、それは研究の中立性を偽装することになるので悪いことだとされている。

わたしが "ghost authorship" から思いうかべるのはむしろ、研究チームの中で共著者になって当然の貢献をしている雇われ人や大学院学生などが共著者にふくまれないことだ。【蛇足だが、研究活動にかかわっている雇われ人や大学院学生がかならず共著者になるべきだというつもりはない。貢献の内容や大きさによる。】 それが意図的ならばハラスメントともいえるだろう。

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しかし、だれが共著者になるべきかと考えてみると、むずかしい問題がある。本来、研究への重要な貢献者と著者の条件とは同じではない。わたしは、文章の結論に同意している人だけが著者になるのが正しいと思う。きっかけとなる発見をした人や、材料をととのえた人は、たしかに研究に貢献したが、最終的な論文に目をとおす機会がなかったり、(残念ながら) その論述を理解する能力がなかったりするならば、その論文の内容に責任をとりようがないので、著者になるべきではないと思う。

しかし、現代の科学行政のなかで、科学者の業績評価として、研究論文の著者になることが圧倒的に重視される。論文の謝辞あるいは本文中で貢献を明示したとしても、業績評価に反映されるしくみがない。研究に重要な貢献をした人を著者にくわえることが慣例になってしまっている。この状況では、"corresponding author" としてしめされた人以外の著者は論文の主張に全部賛同しているとはかぎらない、と見るべきなのだろう。ねつ造・改ざんなどの不正があったばあいの道義的責任も、実際に不正をした人にくわえて corresponding author にかぎって問うしかないのかもしれない。

他方、研究の計画や実行には関与していないが、文章をまとめることには深く関与している人がいたら、どうあつかったらよいだろうか。一般向けの本ならば、そういう人は ghost writer になっていることがありがちだが、むしろ著者としておもてに出すべきだと思う。学術論文のばあいも文章の観点からは著者にふくめて当然なのだが、研究への貢献の観点からは著者にふくめるべきでないので、あつかいにこまる。著者であること (authorship) を業績評価に直結させる風潮がまちがっているといえばまちがっているのだが。

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焦点を研究論文の著者になるかどうかにおくべきではないと思うが、研究へのそれぞれの人の貢献を成果の記録・発表に適切に反映していくことは、たしかに「研究公正」の重要な部分だと思う。とくに、研究チームのなかでの地位が弱い人の貢献がわすれられないようにするべきだと思う。

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ひとまず課題を分類してみると、つぎのようになる。

  • ねつ造や改ざんなどの知識内容に関する不正をふせぐこと (6a節)
  • 研究へのそれぞれの人の貢献を記録・発表に反映させていくこと (6a-d節)
  • 研究チームメンバーの処遇 (3節)
  • 研究対象や協力者に対する倫理 (2節)
  • 法制度をまもること、あるいは、まもれる制度にしてもらうこと (4節)