【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】
- 1 -
【この部分は、学問のありかたや、学者をどう評価するかに関する、ひとりの学者としての社会に対する主張である。】
【たびたび言っていることだが、きょう(2018-09-15) またTwitterで発言した。言いたりないこともあるが、ひとまずそのままここにも出しておく。】
研究が進むと学問の先端が常識から遠くなっていく。先端の研究者の人数は少なくてよいが、理解者は多くないといけない。そのためには先端への道をとおりやすくする努力が必要。暗黙知(「密教」)の部分をなくせないにしても、明示された知識の部分をふやすこと。その仕事は先端の研究と同等に重要。
教科書書きと講義を本業にして先端の研究をもはやしない教授がいてもよいと思う。ただし教科書書きの集団が閉じてその中でだけ相互評価するようになるとまずい。教科書書きは研究者とのコミュニケーションを続けないといけない。教科書書きと研究者の評価は、同じ集団の中でちがう基準でされてほしい。
教科書書き型の教員が、先端の研究をする約束をしなくても、先端の学術情報にふれることができる必要がある。大学行政に対する要求は、このごろ多くの大学関係者が言うのと同じように、競争型研究費よりも基幹経費(国立大学ならば運営費交付金)の配分をふやしてほしい、ということになる。
- 2 -
【この部分は個人的ぼやきである。】
わたしはここでいう「教科書書き」型の学者をめざしてきたはずだった。
しかし、今のわたしは、体力というか気力というかがとぼしくなり、先端の研究ができないだけでなく、教科書書き型の仕事も、本の1章は書けそうだが1冊は書けない、という程度の能力しかなくなってしまったようだ。もし、どなたかが、わたしの能力分布をよく見つもってうまく働かせてくだされば、わたしはまだ貢献できるかもしれない。そのような幸運がなければ、わたしは静かに消えていくしかないのかもしれない。