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わたしはどのようにして「表音派」になったか

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

この記事は、個人的な覚え書きです。知識を提供することも、意見を述べることも、意図していません。ただし、将来、知識提供または意見の記事で、背景説明として使う可能性はあります。

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日本語の文字づかいについては、わたしは「表音主義者」だ。つまり、標準は かな か ローマ字だけで書くことにしたほうがよいと思っている。ただし、漢字をなくそうというのではなく、漢字の読み書きを義務としないようにしようということだ。

しかし、(学生のころはともかく就職して以来)、その主張を、たまにしか実践してはいない[注]。わたしの日本語の文字づかいは、同業者(自然科学者)の並のものに近い。わかちがきなしの漢字かなまじり文だ。ただし、横書き (縦書きはぜひ必要なときだけ)、数字は原則として算用数字だ。同業者の並よりも、やや表音主義寄りのところはある。なじみのない字をわざわざ持ち出すことはしないようにしている。漢字書きわけの議論を避けたくて、読者には見慣れないだろうと思っても、かな書きをすることもある。

  • [注] まったく実践していないわけではない。個人ウェブサイトにローマ字日本語によるページをつくっている。http://macroscope.world.coocan.jp/ja_roma/ 世界に発信するのに、文字はローマ字にして日本語で書くことによって、英語で書くのとは別の読者につながると考えたからだ。しかし、これまでにそこに置いた記事は少しだけだ。

わたしの文字づかいの感覚のうちで、どれだけが、わたしの世代(そのうち理科系の勉強をした人にかぎるべきかもしれないが)で共通で、どれだけが、わたしに特異なのか、自分でもよくわからない。そこで、ひとまず、わたしの個人的背景を書き出してみることにした。

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わたしは、ひらがなとほぼ同時、もしかするとひらがなよりも前に、(日本語を書く文字としての)ローマ字を知った。これは1960年ごろの日本の幼児としてはめずらしいことだっただろう。それはたぶん親の意図ではなく偶然だった。

家には「いろはつみき」という積み木があって、わたしは毎日のようにそれで遊んだ。一辺3センチほどの正方形、厚さ1センチほどの木片で、おもて面にひらがな1文字が書いてあった。積み木として使うこともできるが、字をならべてことばを示す教材を意図したものだろう。裏に、おもてと同じ音の、かたかなと、ローマ字(訓令式だったと思う)が書いてあった。

ところが、おもては、わりあい濃い色の塗料を塗った上に黒い文字が書いてあって、明度コントラストが弱い。(色は6とおりぐらいあって、積み木をいろは順にならべると色がそろったのだと思う。) 裏は、木の地の色(わりあい薄い)の上に黒い文字で、明度コントラストが強い。さらに、わたしは視力がよかったので、1cmの文字のほうが、3cmの文字よりも読みやすかった。それで、わたしはおもてのひらがなよりも、裏のかたかなとローマ字を読んだのだった。

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わたしは、ひらがな、かたかなの読み書きは小学校入学前にできるようになっていた。漢字は、書くほうはあまり早くなく、自分の名まえなどを別として、学年別割り当てよりちょっとだけ早い程度に覚えた。読むほうは早くて、小学校低学年ごろに、おとな用の新聞などを拾い読みしていた。ただし正しく読んでいるとは限らなかった。祖母が覚えていてあとで話してくれたところでは、テレビの字幕の「皇室」を「のうしつ」と読んだ。(「天皇」が「てんのう」であることは知っていて、推論したのだった。)

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わたしが子どものころ、家にはいろいろな本があって、わたしは、いわば「手あたりしだいに」読んだ。
文字づかいで分けると、次のような本があった。

  • 子ども向けの新しい本: 当用漢字表・音訓表にしたがった (さらに教育漢字の学年別割り当てを意識した) 文字づかい。
  • おとな向けの新しい本: (当用漢字表にある字は)新字体、現代かなづかい。漢字の使いかたは著者の感覚しだい。新聞社などのマニュアルにしたがったものは原則として当用漢字(固有名詞は別)。
  • 古い本: 旧字体、歴史的かなづかい。子どもが読むと想定されたものはルビつき。

文字づかいのちがいは感じたが、あまり気にしないで読んでいた。しかし、書くときは、ほぼ学校の教科書にあわせていたと思う。ただ、宿題などで、親からおそわったとおりに書いた部分の文字づかいを、先生になおされるなどの場面で、文字づかいの標準が、(当時の)今の学校とむかしの学校とでちがっているらしいことを知った。

そして、親が買っていた『当用漢字小辞典』や『国語の早わかり』という本を、たぶん親よりもだいぶ熱心に読んで、「当用漢字」や「当用漢字音訓表」がどんなものであるかを、かなり詳しく認識した。

中学生ごろ、国の政策が漢字制限を弱める(漢字をふやす)ほうに少し向かった。教科書に紙をはった覚えがある。学年割り当ての漢字が追加されたので、かなで書かれていた語を漢字にする、という変更だったと思う。

わたしは漢字をふやす方向の変化に反発した。一般に人の自由をしばる規制には賛成しないのだが、漢字については制限するのがよいとする思想を自分のものにしていた。

その根拠として、まず、言語は音が基本で文字はそれをあらわすものという(言語学的意味での)表音主義が正しいと思っていた。(今のわたしは、手話や数式などまで考えれば、音が基本でない言語もあると認識しているが、日本語や英語を論じるときには、音が基本という主張を変えなくてよいと思っている。)

また、民主主義の立場から、国民としての権利を行使するのに、漢字をたくさん覚えなければならないのはまずいと考えていた。(国民でない人、文字をまったく覚えられない人などの立場も考えると、この主張は構成しなおさなければならないが、それでも有効な理念を含んでいると思っている。)

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母はもと英語教師だった。しかし、母はわたしに積極的に英語を教えようとはしなかった。わたしが英語を(簡単なものにせよ文を組み立てられるように)学んだのは、中学入学以後だった。

ただし、母は、子どもたちに英語やそのほかの外国語になじみをもたせようとは意識的にしていたようだ。父のアメリカ出張の準備のために、レコードの英語会話教材を買ったときには、わたしも、その最初の部分だけ、何度も聞いた。(のち、ブラジル出張準備でポルトガル語、ソ連出張の可能性があってロシア語の入門教材を買ったときも同様だった。) また、テレビ・ラジオの語学講座を母自身が娯楽的に聞いていて、わたしもいっしょに聞いた。

また、英語の発音を構成する基本的な音については、「発音記号」(IPAの英語関係の部分)や、口からのどの断面の図解を含むやや専門的な本(大学または教師用の教材か)も使って教えてもらった。

文字についても、penmanship (いわゆるペン習字)をちょっとやらされた。今ではあまり使わなくなったが当時は必要と考えられていた、筆記体の書きかただった。ペンをためして、あまりに手をよごすので、あとは鉛筆になったと思う。

母の学生時代・教師時代から持っていた英語学の本をのぞいて見たこともあって、詳しくは理解できなかったのだが、英語の発音とつづりの関係の複雑さについては、ふつうの中学生よりはよく知っていた。

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中学・高校のころ、わたしは、ノンフィクションに偏ったが、そのうちではさまざまな分野の本を読んだ。学校の図書館も使ったし、親が持っていた本も読んだが、こづかいで自分で買った本もあった。新書判の本が多かった。今もある、岩波新書、中公新書、講談社現代新書、ブルーバックスのほか、今はない、三省堂新書、紀伊国屋新書、三一新書、日経新書などが記憶に残っている。

そのうちで、言語学に関する本を読んだ印象がわりあいよく残っている。例をあげれば、グロータース 『誤訳』(三省堂新書)、魚返 善雄(おがえり よしお) 『言語と文体』(紀伊国屋新書)、金田一 春彦『日本語』(岩波新書)、柴田 武『日本の方言』(岩波新書)などだ。

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家には手動の英文タイプライターがあった。母が教師時代に使っていたものにちがいない。本体は金属(たぶん鉄)で、キートップは緑色の「樹脂」だった。かたいが薄い木質(ベニア板に化粧紙貼りか?)のカバーがあって、それを閉じるとかばんのように持てた。英語のロゴがあった。Remingtonだったかもしれないが正確に思い出せない。キーボードはアメリカ英語用で、$はあったが£はなかったと思う。「1/2」「1/4」という合字もあった。数字は2から9までがあり、0はオーの大文字、1はエルの小文字で兼用することが想定されていた。

教則本もあった。日本語横書きだったが、日本語の本としては変則的な装丁で、American Letter SizeかA4の短辺とじだったと思う。キーを見ないで打てる、当時の用語で「ブラインドタッチ」ができるようになるのを目標として、段階を追って訓練するものだった。わたしははじめのほうだけ読んだのだが、指を「ホームポジション」に置き、遠くのキーを打ったあともそこにもどすことを強調していた。最初の練習は、左右のホームポジションのひとさし指を打つ「fjfj」だった。それだけやってみた。あとはざっと読んで、自己流に打ってみた。

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タイプライターにふれたのとの前後関係は忘れたが、梅棹忠夫 (1969)『知的生産の技術』(岩波新書)を読み、強く影響を受けた。親にすすめられたのだが、親は「京大式カード」による情報整理をすすめたかったのだと思う。(わたしはけっきょく、この本にあるとおりのカードによる情報整理はしなかったが、学校のノートをルーズリーフにしたという形で影響が残った。) この本がわたしに印象を残したのは、著者の文字づかい(漢字を音よみでは使うが訓よみでは原則として使わない)と、タイプライター利用の試みだった。

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大学に入学するとき、親戚の人に何か買ってもらえることになったので、欧文タイプライターを希望した。
「英文」ではなく、フランス語・ドイツ語なども打てるものを希望した。(日本語ローマ字で長音をあらわす山形(フランス語のアクサン シルコンフレクスにあたる形)を打ちたかったのも理由だが、それは言わなかった。)

Olivettiの製品で、型名は忘れたが、internationalという種類のキーボードを選んだ。フランス語、ドイツ語、イタリア語にほぼ対応していたが、スペイン語、ポルトガル語、スウェーデン語、チェコ語などを書こうとすると補助記号が不足していた。アルファベットの配列の基本は英語用のQWERTYだった。(わたしはこのときはまだ、フランス語では AZERTY、ドイツ語では QWERTZ がふつうだとは知らず、ローマ字圏ではみんな QWERTYなのだろうと思っていた。) フランス語のアクサンやドイツ語のウムラウトは、いわゆるデッドキーになっていてキーを打ってもキャリッジが進まず、その使いかたは、まず補助記号を打って、それから文字を打つのだった。セディーユはcとあわせた文字のキーがあった。エスツェットはあったか覚えていない。ssで代用せよということだったのかもしれない。

大学1年のときは、これでおもにローマ字日本語を打っていた。つづりかたは、『知的生産の技術』および小学校時代の教科書などの記憶で、訓令式にしていた。わかちがきは、戦前の田丸卓郎さんなどの方式ではなく、戦後の柴田武さんたちによる、いわゆる「東大システム」(そういう表現で『知的生産の技術』に出てくる)に近いものを使っている。理屈でなく習慣で身につけたのだが、助詞をひとつずつ前の語と分けることは意識した。(学校文法でいう助動詞の扱いの説明はむずかしい。いま反省してみると、近似的には「終止形につく助動詞は分けるが、ほかの形につく助動詞は分けない」と言えそうだ。)

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知的生産の技術』には、日本語の表記には、ローマ字や かたかな よりも ひらがな のほうが見こみがありそうだ、ただし、わかちがきは必要、という議論があり、わたしは賛同した。

わたしはひらがなタイプライターがほしかった。大学生協購買部にひらがなタイプライターが現われたので、キー配列は梅棹さんが勧める斎藤強三さんの「ひらかな標準配列」ではなかったが、買ってしまった。ブラザーの製品だった。(この既製品ならばこづかいで買えたが、キー配列を指定するような特別注文は学生の手におえない値段だろうと思って、どこが売っているかさえ調べなかった。その後、それを知っているはずの人に会っても、たずねないまま来てしまった。)

ブラザーのひらがなタイプライターのキー配列は、カナモジカイ式のカナタイプ (英文兼用でなく専用のほう)と同じ配列で、ひらがなに変えただけだった。英文ならQWERTYのところが「たていすかんなにら」、ホームポジションの段は「ちとしはきくまのりれ」だった。わたしは、(fjfjに相当する)「はまはま」の ためし打ちをしてから、その日の日記を書こうとしたら、「ちりままねん ちれがつ とちにち」となったのを覚えている。数字はホームポジションのキーをシフトすると出るようになっていたのだが、シフトキーを押すのに力が必要で、そのときのわたしの押しかたでは不足だったのだ。「1977年 10月 21日」と解読できる。それからしばらく日記を打っていたのだが、日記を書く習慣がなくなって、ひらがなタイプを打つ習慣もとぎれてしまった。

ともかく、学生のときのわたしは、日本語をローマ字かひらがなで書くのがふつうになるとよいと思い、また、機械による情報処理が発達している流れが進むと、たぶんそうなるだろうとも思っていた。もちろん、漢字かなまじりで書かれた日本語をそのまま表音文字で書いたのでは、意味がわからなくなることもある。わたしは、表音文字で書いて通じる日本語を使うようにしようと思った。Nippon-no-Rômazi Syaの会員になったり、カナモジカイの『カナノヒカリ』や、個人のかたが出していた『ひらがな たんか』を購読したりもした。

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大学4年のときから、大学の計算機を使うようになったが、アルファベットの大文字、数字、英文の句読点、算数記号だけだった。

大学院になってから、使える文字にアルファベット小文字が加わった。計算機プログラムや数値データのほかに、英語の文章を計算機で処理することが、なんとか可能になった。修士論文を大型計算機上で編集して roff というソフトウェアで整形しプリントした。

それから、パソコンで日本語文字が使えるようになった。わたしが知っていた8ビットパソコンでは、「半角」かたかなは使えたが、漢字や「全角」かなは、ハードウェアでは画像として扱い、日本語処理ソフトウェア内でだけ文字として扱えた。単漢字で読みから選択する変換ができた。わたしは日本語ワープロソフトウェアにもさわってみたが、実用に使ったのはまだ英語ワープロだけだった。

1984年ごろには、16ビットパソコンで、単語・文節レベルのかな漢字変換ができるようになった。わたしは日本語をローマ字入力することにした。プログラムや英語を書くことが多かったからローマ字キーボードには熟練していた。ひらがなタイプライターを使った経験は、カナキーボードへの熟練には達しなかった。1986年ごろには、NEC PC9801 MS-DOS上の「一太郎 version 3」を使い慣れて、打つ速さではなく作文・推敲を含めて「時速2千字」の作業効率をひそかに誇ったこともあった。(「一太郎 version 4」は、version 3と同じハードウェアで使うと遅すぎたし、ファイル形式がMS-DOSテキストファイルとちがうものになってしまったので、わたしは敬遠し、できるかぎりversion 3を使いつづけた。)

1995年ごろからは文書作成の作業場を MS-DOS から Unix (Linuxを含む)に移し、emacsで文書を編集した。日本語入力は egg + wnn だった(のち、sj3 を使ったり anthy を使ったりした)。文書整形にはLaTeXも使ったが、HTML文書を書くことのほうに熟練したので、HTMLをプリントすればすむときはそうしている。

2011年ごろから、Linuxを日常に使う習慣がなくなってしまい、文書作成はMS Windows上でやっている。日本語入力はOS付属のMS IMEによっている。なにごとにも熟練していない単なるパソコンユーザーになってしまった。

「一太郎」の時期に、わたしの日本語の文字づかいは、同業者(自然科学者)の標準的なものに近い、漢字かなまじり文になった。1節にも述べたように、多少は表音主義寄りではあるが。

コンピュータによる文字処理技術の発達によって、日本語の文字づかいは、1969年に梅棹さんが予想したのとはちがう方向に進んだ。わたしも大きな意味では日本語話者の多数と行動をともにしたのだ。

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これまでの日本では、梅棹さんやわたしが予想したような、子どもや外国人向けに限らず多くの日本語の文章が ひらがな で書かれるような状況にはなっていない。

しかし、宋(2014)の文章を読んで気づいたのだが、韓国では、ほとんどの実用的な文章がハングルで書かれるようになった。

1970年代の学生としてわたしがもっていた知識では、北朝鮮では朝鮮文字(韓国でいうハングル)だけで文章を書いていたが、韓国では、ハングル漢字まじり文がふつうだった。ただし漢字を音読みだけで使っていた。1980年代、わたしの知っている自然科学分野の韓国の学術書はハングル漢字まじり横書きだった。(人文学分野のものは縦書きのものが多かった。)

その後、わたしは韓国語の文献を読む必要性を感じなかったので気づかなかったのだが、2000年代に韓国の本屋に行くと、自然科学分野の学術書なども、ハングルだけで書かれている。1980年代とは文字づかいが変わってきたのだ。もちろん、それと並行して、学術用語を漢字に頼らないように変える努力がおこなわれている。宋(2014)はその努力を解説したものだった。

わたしは、韓国で、どんな動機で、どのような過程で、文字づかいが変わってきたのか、追いかけていない。(漢字が使われなくなったことで、わたしにとっては、追いかけるのがむずかしくなった。)
そういう立場からの想像にすぎないのだが、まさに梅棹さんが日本語について想像したように、機械(ワープロ、パソコン)による情報処理がきっかけとなって、表音文字化が進んだのだろうと思う。

文献

  • 永彬 (ソン ヨンビン), 2014: 韓国における専門用語平易化の試み -- 医学と物理学。日本語学 (明治書院), 2014年3月号 (33巻3号) 44-57. [読書メモ]
  • 梅棹 忠夫, 1969: 知的生産の技術 (岩波新書 青版 722, F93) 岩波書店。ISBN 978-4-00-415093-0。(電子版は2015年).[読書メモ (2018-06-03追加)]