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このブログの記事の性格 (2)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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わたしはときどき、このブログに記事を書くことについて、迷います。今度も3週間ほどあいだがあきました。そのあいだに考えたこと、そして、これからどのような態度で記事を書いていこうと思っているかを、ひとつの記事にしておこうと思います。[2017-05-17 このブログの記事の性格]の記事への補足のような意味があるので、その(2)としておきますが、「お知らせ」のカテゴリーではなく、分類なしの記事としておきます。

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わたしが記事を書くかどうか迷うのには、ちょっとおおげさに言うと、「わたしが記事をネットに公開することは、社会に対して、善をなすのか、悪をなすのか、わからない」という思いがあります。

【また、自分の内側で、記事を書くならばその作業に伴う負荷があるし、書かずにためておくことならばだんだんたまっていくことの精神的負荷があって、どちらをとるか迷う、ということもあります。これには、自分用のメモだけ書いておくという妥協案があるが、その結果は、社会に対しては、書かないほうと同じでしょう。】

【前の段落の続きの話にもどります。】

何か書きたいけれども、根拠が不確かだ、ということがよくあります。根拠が不確かな記述を、もし読者が信頼して動いてしまった場合、わたし(書き手)としては責任をとれません。

しかし、根拠を調べてからと思うと、遅くなります。出さなければ、人に知られません。出すのが遅くなれば、とくに時事的問題については、読まれる可能性が減ることもあるでしょう。

学術的知識を提供する教材ウェブページをつくるときは、文献、または文献と同程度にしっかり編集されていると思われるネット情報を参照するようにしています。(ただし、文献の使いかたは、頭の中にあることを書き出したうえで、文献で趣旨がちがっていないことを確認したり、少し修正したりする、ということが多いです。文献を出典としてあげることを要求するWikipediaの記事を書くのは、わたしにとっては楽ではないのです。)

しかし、教材関連でも、ブログ記事を書こうと思うのは、質問に答えたのがきっかけで、もっとおおぜいの人に読んでもらおうと思うことが多いので、文献を調べずに記憶をもとに書いてしまうことがありがちです。そういう態度で書いたことを明示するようにこころがけています。そして、もしあとでまちがいに気づいたら、改訂するようにこころがけています。(改訂したとき、改訂まえの状態は残さないことが多いです。教材のような性格のページでは、履歴を残すことよりも、文章をとおして読みやすいことのほうが重要だと思うからです。)

時事問題について書く場合は、自分の専門に近い側面のほかは、根拠があやふやのままになることが多いです。そういう記事を世に出してよいのか、という悩みはあります。しかし、それでも、自分が他の人の言うとおりでないことを言えそうならば、世の中の言論の多様性をふやすのも有意義だろうと思うこともあります。また、個人として自分の意見を世にうったえたいこともあります。

根拠のあやふやな記事が世の中に強すぎる影響を与えることを防ぐための(部分的)対策として、「話題中の人物のだれをも、(内心では悪者と言ってよいと思っても)悪者扱いしない。逆に、ほめたたえることもしない。」という態度をとることをこころがけようと思っています。

ただし、わたしが賛同する論旨で参考文献としてあげる文書に、わたしが賛同しない態度の発言が含まれていることはあるかもしれません。また、わたしが賛同しながら紹介(ツイッターでのリツイートなど)した発言の主が、ほかのところで、わたしが賛同しない発言をしていることはあるでしょう。自分が広めたい議論のよりどころとして、自分が広めたくない類型の議論をしている人には、なるべく頼りたくないのですが、つねに排除するとよりどころが乏しくなってしまうので、妥協も必要だと思うのです。