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ソンタク (忖度)

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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「そんたく」ということばを、去年(2016年)ごろからよく聞くようになったと感じる。正確に言うとわたしは「聞く」というよりもネット上で文字を見ている。その文字は漢字の「忖度」である場合もあれば かな の「ソンタク」である場合もある。

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わたしは、1960-70年代の子どものころに、親やその世代の人たちが使っていたことばのうちに「そんたくする」というものがあったのを、なんとなく覚えている。意味はあまりよくわからなかった。また、そのころ、おとな向けの本(新書本などだが)を読むことがあったから、そこで「忖度」ということばに出会っていたかもしれないが、実質的に読みとばしていて、印象に残っていない。

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文脈に関係なく「ソンタク」と聞けば「日曜日」かと思う。日曜日は英語で Sunday なのと同様にドイツ語では Sonntag なのだ。ドイツ語の標準的な発音では語頭の s は有声音になるから、かたかな による近似は「ゾンタク」が適切だろう。しかしわたしはスイスのドイツ語圏に滞在したとき、語頭の s が無声音になることが多いのを聞いている。地方語の発音なのかもしれないが、この位置の s が有声音か無声音かの区別を気にしていないようだった。その感覚を覚えてしまったので Sonntag と「ソンタク」とが結びついてしまった。

なお、オランダ語では zondag だ。オランダ語の文字と有声音・無声音の対応をわたしはよく知らないのだが、辞書の発音表記を参考にかたかなで近似すると「ゾンダク」あるいは「ゾンダハ」だろうか? そして、「博多どんたく」はこの zondag が「祭日」のような意味に転じたものだそうだ。はじめの音が d では日曜日よりはむしろ火曜日か木曜日の名まえに似て聞こえると思うのだけれど。もはやオランダ語を知らない日本語話者のあいだで伝わったうちに変形したということなのだろう。

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わたしは「忖」という字をまだ自分の手で書いたことはない。わたしが使っているパソコンのOS常備の日本語入力で「そんたく」を変換すると選択肢に「忖度」が出てくる(ほかの漢字列は「尊宅」だけだ)。それで「忖」という字を知った。

これは「りっしんべん に 寸」の形声文字にちがいない。りっしんべんは「心」であり、人の心理に関することをさすのだろう。「寸」は音がスンに近いことを示すのだろう。「村」も同類だろうことに気づけば、ソンという読みもありうると思う。「寸」はいくらか字のあらわす語の意味もになっているのではないか。藤堂明保氏のいう「単語家族」の考えを借りれば、「寸」の単語家族に属するのではないか。その意味がもし「少し」だとすれば、「忖」は「気持ちを少し動かす」ことだろうか? (これは言語学のしろうとのわたしが新たに調べもしないで想像したことにすぎないので、知識として信頼しないでいただきたい。)

「忖」は「村」のほかに「付」と似ている(まちがいやすい)けれども、「付」の音は全然ちがう。そして「付」は形声文字の音符としてもフの音をあらわしているようだ。同じ形を含んでいても「付」は にんべん と「寸」から成り立っているわけではないのだろう。

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わたしはまだ「忖度」ということばの意味をよく調べていない。ほぼ「推測」と同じ意味だと推測している。ただし対象が限定されているだろう。(たとえばここの「...と推測している」を「...と忖度している」と置きかえるのはまずいようだ。)

近ごろの時事的な話題で使われている「忖度する」は、「権力をもつ人がしてほしいことを、(相対的に権力が弱い人が)推測する」という場面で使われていると思う (これも、わたしが 使われている文脈から推測しただけなので、確実ではない)。「権力をもつ人」というのは、政府や企業の長になっている人の場合もあるし、許認可権をもつ人の場合もあるし、名目上は出てこないが裏で決定権を握っている(らしい)人の場合もある。

そして、「忖度する」は、推測するところまででととまらず、権力をもつ人がしてほしいだろうと推測されることを実行するところまで含めた意味に使われていることもあるようだ。(おそらく語源からは正しくない使いかただと思うが。)

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何かのかかわりのある他人の意向を推測することは、人間関係をよくするのに役だつことも多く、一般にはよいことなのだろう。しかしそれが義務のように感じられる状況はよくないと思う。

権力関係がからんで、人びとが権力をもつ人の意向を推測して行動するのが当然になっているような状況には、いくつもの危険がある。

ひとつは、推測はまちがうこともあることだ。まちがった推測にもとづいて行動したら、権力者にとっても、おそらくほかのだれにとっても、得にならない。

もうひとつは、権力者が命令するならばその責任がはっきりするし、それを制限するしくみを準備しておくこともできるけれども、意向を推測して行動するのでは、だれの責任を問うべきかがわかりにくくなることだ。

「忖度」が必要だと感じられる状況はなるべくなくすべきなのだと思う。権力関係をなくせばよい場合もあるだろう。権力関係がなくせないときは、意向が明示されるようにし、明示されない意向は無視されて当然とするべきなのだろう。

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わたしは「忖度」ということばを自分からは使いたくない。

しかし、このことばが使われている議論に参加したり、他の人がこのことばを使っている議論を参照して議論を組み立てたりするときには使うかもしれない。また、「権力をもつ人の意向を推測して行動することが求められるような社会のしくみ」を短く略して述べたいとき「忖度の構造」などと言ってしまうことはありうる。

また、わたしは、自分が使う字の種類をあまりふやしたくないので、この語でしか出てきそうもない「忖」という字はできれば使いたくない。「ソンタク」ですむときは、そう書きたいと思っている。

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ある政治家が「国民の思いを忖度して...」という表現を使ったそうだ。それを伝えた人は、その表現は変だと思っているようだった。わたしも、変な気がする。

国民主権であっても、また、国民は実際に選挙によって政治家に(いくらかの)権力をおよぼすことができる立場ではあっても、国民は、上の5節で述べたような「権力をもつ人」にはあてはまらない(と感じられる)のだと思う。(ただし、「権力をもつ人」ということばを含む5節の説明はわたしが勝手に考えたものであって、これに合わない使いかたをまちがいだと言えるような権威はない。)