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教科書に出てくる用語を変えること: 「鎖国」などの歴史用語を例として

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学術的な知識を専門外の人に伝えるときの用語は、学術の立場から見てまちがいのないように選びたい。しかし、専門家どうしの議論で使っている用語をそのまま使えばよいとは限らない。同じ語が専門外の文脈で使われている意味とまぎれる場合や、専門的予備知識がないと意味が伝わらない場合は、意味が伝わるように表現を考えなおす必要がある。

それにしても、興味がある人に(だけ)読んでもらいたい個別の解説文で使う用語ならば、それぞれの専門家が、自分の専門分野の認識を正しく伝えるようにくふうすればよいだろう。

学校(小・中・高校を想定している)の教科書にのり、さらに、(直接に暗記を求めるのではないにせよ) 試験の問いに答える際に生徒が書くことを求められるような、キーワードの場合も、基本は同様だ。しかし、そこで考慮する専門家の認識としては、教科書のそれぞれの章の執筆者の研究分野にとどまらず、その科目の全体にわたる(複数学年にもわたる、できれば他の科目との関連も考えられる) 広めの専門家集団の共通認識を反映させる必要があるだろう。

また、教科書の用語は、できれば、過去の教育との連続性ももたせたい。しかし、広めの専門家の共通認識が「これまでの教育で使われてきた用語では内容を正しく伝えるのに無理が生じる」となったときは、あえて変更することも必要になるだろう。

それぞれの場面で、だれが「広めの専門家」に含まれるか、また、含まれる人びと(教科書の場合ならば、研究者、教師、編集者など)の見解にどのように重みづけするか、は自明ではなく、そこで争いが起こる可能性はある。

法律や行政的規則に出てきて、一般の人びとがその法律や規則をまもるために使わなければならなくなる用語 (ここでは、法律用語ではなく、対象となるものごとに関する用語を想定している)についても、教科書の用語の場合と同様なことが言えるだろう。

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こんなことを考えたきっかけは、小・中学校の学習指導要領の改訂の準備として、2017年2月14日から3月15日まで、「パブリック・コメント」(意見公募)があり([パブリックコメント: 意見募集中案件詳細 案件番号 185000878])、そのうち、中学校の歴史(日本史)の用語が問題になったことだった。

わたしはその問題を追いかけていなかったのだが、3月20日、「パブリックコメントを受けた結果、原案では変更される予定だった『大和朝廷』『聖徳太子』『元寇』『鎖国』は変えないことになった」という趣旨の報道があった(ただし、正式決定はこれかららしい)。それをめぐるいくつかの意見を見ながら、自分でも考えることがあった。

ただし、わたしはこの歴史用語の件について、意見分布を調べたわけでもないし、自分の主張をしっかり組み立てたわけでもない。このあとに書く個別の用語に関する意見は、それほど深く考えたわけではない個人の意見にすぎない。歴史とは別の自然科学の分野の専門家として、その分野にも適用できる、上の1節に書いたようなことを考え続けていきたいと思っているのだ。

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歴史用語のうちには、日本語圏の一般社会の共有知識となっているものがある(自然科学用語についても同様なことが言えると思う)。報道でも、文芸作品でも、その主題ではなく背景説明として、時代名、過去の制度の名まえ、著名な個人名などを、詳しく説明しなくても通じることがある。それは、その用語が、近代になってから長い期間、学校教育で使われつづけた結果であることが多い。そういう用語は、変えないことに、社会的有用性がある。

しかし、変えるべきこともあるだろう。

その内には、「歴史学的に正しくない用語を正しい用語に変えるべきだ」と提起される場合がある。

歴史学的に正しい」とは、「対象となるものごとの当時使われていた用語」という意味のことと、「現在の歴史学的認識を的確に表現する用語」という意味のことがあり、両者は必ずしも一致しない。

もし(上のいずれの意味にせよ)「正しい」用語に関する専門分野の学者のおおかたの合意があるとしても、学校教育での用語をそれに合わせなければいけないとは必ずしも言えないだろう。学校教育での用語を変えるべきなのは、慣用の用語を使うと現在の学問ではまちがいとされる認識を思い起こさせる可能性が高い場合だろう。そのような可能性が高いかどうかの判断には、対象分野の専門研究者と、学校教育やメディアや一般市民の用語についてレビューしている人との共同作業が必要かもしれない。

学問的理由のほかに、慣用の用語が、(今の)国際関係や、(民族・地域・性別・障がいなどの)差別問題などに対して、悪い影響を起こすおそれがあるので、変えるべきと判断される場合もあるだろう。対象となるものごとの当時使われたことばについては、引用であることを明示して扱い、現代の歴史記述としては別の用語に変えるべきこともあるだろう。これも、対象となる歴史の専門研究者と、現代の国際関係や差別問題についてレビューしている人との共同作業が必要かもしれない。

「学習指導要領」のように国が標準を定める際には、国家の立場を反映することが要求され、学問的正しさを追求することや、人類全体を公平に見ようとする立場とは、衝突することもありうる。(起こりがちな場面としては、まず、国境付近の領土にかかわることや、過去の国際紛争についての評価を含む記述などが考えられる。) かといって、国が教育の質の保証にまったくかかわらない体制も望ましくないだろう。標準の意義を認めながらも、それが強制として働くことが有害だと思う場合は抵抗していくべきなのだろう。

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2節で述べた、「大和朝廷」「聖徳太子」「元寇」「鎖国」は変えないことになったという件については、保守系、むしろ明治憲法体制への復古が望ましいと考えているらしい人びとが、変えることになっていた改訂原案に反対し、パブリックコメントで意見を言おうという運動をしたので、それが影響した可能性がある。(わたしは彼らの政治的主張にまったく賛成しないが、彼らに賛同した一般の人びとの「慣用の用語を変えられたくない」という気分には賛同できる面もある。)

改訂原案と従来どおりとどちらが望ましいかの判断は、4件それぞれ違う。わたしは歴史学者を含むなん人かの人びとの発言を見て(広く意見分布を確認したわけではないので偏っているおそれはあるが)、次のような暫定的判断に至っている。

これは、中世史[注]が専門の ITO Toshikazu (Twitter @toshiitoh) さんの3月20日の複数のtweetに賛同したものだが、ここでは歴史専門家ではないわたしの個人的意見として示す。

  • [注] 近ごろの日本史では、時代を「古代」「中世」「近世」「近代」と区分する習慣がある。わたしが1970年代前半の中学生として学んだ時代区分と対応づけると、古代は平安時代まで、中世は鎌倉時代室町時代、近世は江戸時代、近代は明治以後にだいたいあたるようだ。(ここで「...時代」の形で示した時代区分を使うことを主張するつもりはなく、ただわたしが記憶しているものとの対応を示しただけだ。)

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大和朝廷」について。改訂原案は「大和政権(大和朝廷)」の形だった。3月20日の報道によれば「大和朝廷(大和政権)」となるそうだ。

「朝廷」という用語は(本来の「天皇が政務をとる場所」ではなく「天皇を中心とする政権」のような意味で使われた場合)、律令に基づく官僚機構をもつ政権を思い起こさせる。したがって、律令成立よりも昔の政権をさして使うのは適切でない、というのが現在の歴史学者の多数の共通認識らしい。ITOさんのtweetによれば、高校教科書の用語はほとんど「大和政権」(一部は「大和王権」)になっている。

わたしは暫定的に、中学でも「大和政権」としたほうがよい、というITOさんの意見に賛同する。(「やまと」という地名を使うのが適切か、それに「大和」という字をあてるのが適切か、という問題もあるかもしれない。)

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聖徳太子」について。改訂原案では「厩戸王 (聖徳太子)」のような形だった。

聖徳太子」は、本人が生きていた当時の名まえではなく、のちに贈られた表現であるということは正しい。しかし、改訂原案の「厩戸王」(読みは「うまやどのおう」とされていた)が(学校教育向けの用語として)それよりも適切だとは言いがたい。

石井公成さんのブログ記事(2017-02-23, 最新改訂 2017-03-21)[指導要領改定案の問題点:「厩戸王」は戦後に仮に想定された名、「うまやどのおう」も不適切【訂正・追加】]によれば、「厩戸王」は、20世紀後半の歴史学者 小倉豊文氏が1963年の著作で論述のために仮に導入した表現だ。(江戸時代後期の使用例があることはあるが、継続して使われてきたわけではない。) なお、読みは「うまやとのみこ」が適切だ。本人の生きていた当時使われた名まえとしてありそうなものを小倉氏が推測したものであり、当時実際に使われていた証拠はないのだ。それを他の学者がそのような説明なしに本名であるかのように使ってしまったことがあり、改訂原案の作者はそれを信頼したのだろう。

わたしは、「聖徳太子はいなかった」という説は極論だと思うが、聖徳太子の業績とされてきたことのそれぞれが実際に本人がしたことかは疑わしいということを重視すれば、中学の歴史の授業で聖徳太子(とされる人物)をとりあげて述べるのはやめたほうがよい、とも思う。しかし、中世には信仰の対象となり、近代(昭和)には肖像画が紙幣に使われたなど、のちの時代の歴史にとって意義があるので、名まえを出すべき人なのかもしれない。後者の趣旨ならば「聖徳太子」でよいだろう。天皇の「○○天皇」という名まえがのちに贈られたものであることを教えるならば、それと同様だと説明することができるだろう。「太子」というと皇太子であったと思われやすいが、律令制定の前には皇太子という制度はなかった、という問題点はある。しかし、「皇太子」と言うわけではないし、ほかに記憶すべき「○○太子」が出てくるわけではなく、「太子」まで含めて固有名とみなされがちなので、問題点の悪影響は少ないと思う。

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元寇」について。改訂原案では「モンゴルの襲来」だったが、3月20日の報道によれば「元寇(モンゴル帝国の襲来)」となるそうだ。

ITOさんのtweetによれば、「元寇」は幕末から使われた表現だそうだ。ITOさんの意見では、「モンゴルの襲来」のほうがよく、「帝国」が加わったほうが(高麗も含まれていたという意味で)より正確だが、「元寇」もだめというほどではない。また、とりん (@trinh_JP) さんは「暗記用語を減らすという意味では」、改訂原案のほうに賛成だったそうだ。わたしは、とりん さんと同様、「寇」という字を覚えさせるのを避けたいという理由だけで「元寇」を避けたいと思う。(「倭寇」が、日本の歴史を考えるうえで重要な概念であり、「海賊」などで置きかえることはできず、しかも当時(漢語圏でだが)使われていたことばだから、「寇」という字はなくせないのかもしれないが。)

なお、「襲来」は当時に近い時代の「蒙古襲来」を引き継いだ表現にちがいない。現代の歴史学者の観点で事実を記述する用語を使うべきかとも思うが、「侵略」のたぐいの用語では価値判断の感覚がはいりこみやすいし、「戦闘」のたぐいでは状況が漠然としてしまう。防御側の「日本」を明示しない表現としては、日本に視点を置いたうえで攻撃側の行動をさした「襲来」がやはりよいのかもしれない。

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鎖国」について。改訂原案では江戸時代の「幕府の対外政策」という項目に「鎖国」というキーワードが含まれていなかったが、3月20日の報道によれば、復活されるそうだ。

この指導要領の件とは別に知ったのだが、近ごろ、日本の近世の歴史の専門家の多くが、「鎖国」は不適切な用語と考えているらしい。外国とのかかわりは、政権(徳川幕府)によって管理されていたが、閉じていたわけではなかった、ということを言いたいらしい。たとえば、(どなたの引用で知ったか忘れたが) 荒野 泰典さんが2012年に書いた[シリーズ 東アジアの中の日本の歴史[中世・近世編]【第4回】「四つの口」と長崎貿易 --近世日本の国際関係再考のために--]という記事がある。ここで「四つの口」のひとつは長崎であり、幕府が直轄でオランダおよび清国の商人との貿易を管理していた。そのほかに、幕府の承認のもとで、対馬藩(宗氏)が朝鮮、薩摩藩(島津氏)が琉球松前藩アイヌとの交易をしており、朝鮮と琉球はそれぞれ清朝朝貢関係をもっていたし、アイヌの人びとはロシアや清国の人びととも交易していた。荒野さんたちから見れば、このような状態を「鎖国」というのはまちがいなのだ。

わたしも、その趣旨はわかったつもりだ。しかし、「鎖国」という用語はたとえば「貿易統制」のような表現で置きかえられない意味の広がりを持っていると思う。貿易とは関係があるが別の問題として、人の往来の自由がある。江戸時代(朱印船制度廃止の後)の日本国民(という表現は近代からの持ちこみで、徳川幕府の直接・間接の支配下にあった人びとというべきか?)は、対馬藩薩摩藩松前藩の交易担当者でない限り、日本の外の地に渡ることが許されていなかった。それは、のちの近代だけでなく、前の中世と比べても、きびしい統制だったと思う。(近代については、外国との往来には必ず国家による出入国管理を経なければならなくなったという意味では、統制が強まったと言える面もある。しかし、往来できる人びとの層が厚くなったことは確かだろう。)

他の用語の案としては、荒野さんの解説にも出てくる「海禁」が考えられる。これは漢語で、中国(明・清)の政策をさす表現だったはずだが、日本(徳川幕府)や朝鮮の政策も同類とみなされる。日本だけをさしてきた「鎖国」と意味の広がりは違うが、これを使って議論を組み立てることはできそうだ。ただ、日本語で「海禁」は「解禁」と音が同じになるのが困る(中国語では同音ではない)。専門家ならば注意して使いわけることができるかもしれないが、初等中等教育でまちがいを防ぐのはたいへんだ。

もっとよい語が見つかるまでは、荒野さんたちの論点を承知のうえで、実際に徳川幕府のとった政策を「鎖国」と形容することを続けたほうがよいのだろう、と思った。しかし自信が持てなかった。ITOさんの次のようなtweetを見て賛同した。

ITO Toshikazu (@toshiitoh) 3月20日
鎖国も、近世史研究の範囲で、実は海外とのルートは通じていて幕府の貿易管理策だったとは言っても、中世とは一転した厳重な海禁策をとったことは事実で、近代で「開国」を教えるのだから、海禁と言い換えるならともかく、小中の歴史教育では鎖国でいいと思う。

さらにITOさんは次のような意見を述べている。

ITO Toshikazu (@toshiitoh) 3月20日
小中の歴史教育では今の日本ができるに至る歴史の流れと、時代によって世の中が変わることを教えるのが眼目と思う。用語を変えるなら、その時代の専門家だけでなく、隣接する時代の専門家を説得してからにするべき。

鎖国」の例に即して言えば、近世史の専門家集団内の合意ではなく、中世史と近代史の専門家を含む合意が必要だ、ということだ。

このブログ記事の1節に述べたわたしの意見は、この議論をもとに一般化して考えてみたことなのだ。

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学習指導要領の作成には、文部科学省の視学官と、国立教育政策研究所の教科調査官があたっている。ただし、教科調査官のうちには研究者出身の人もいるのだが、指導要領作成にかかわるのは学校教師出身の人だそうだ。

教師出身の人は、過去の学校教育との継続性を重視することになりがちだろう。研究者出身の人のほうが、学問的知見の変化に敏感だろう。しかしいずれにしても、人数が少ないと、たまたま担当者が知っている知見に偏るおそれはある。そういう偶然性を克服するために、パブリックコメントのようなしくみが有効だろう。しかしパブリックコメントには政治的背景をもった主張が集中するおそれもある(実際に今回起きたようだ)。

制度改革の提案をするとすれば、「学習指導要領をつくることの専門家集団」を養成し、その人の本務に、教科の対象分野の学問的知見をその多様性を含めて展望することを、学校教育の現場の動向・問題点を展望するとともに、含めるべきだろう。(学術的専門性のある人を採用することになるだろうが、たとえば、近世史学者からの転職であっても、近世史学者としての見識を求めるのではなく、歴史学全体を展望してもらうのだ。)

その職能集団の周辺に、その公共的目的を意識して協力できる(持論の売りこみに偏らない)対象分野の学者と、教育方法の学者がいて、助言・議論をするべきだと思う。(そういう働きをする学者の労力がむくいられる必要がある。フルタイム勤務の人に追加のパートタイム労働をしてもらうならば、本務先との間で、その人の労働時間があわせてフルタイム一人前になり、本務先での働きが減ったぶんを他の人を雇うなどの形で補充できるような調整をすべきだろう。)

もちろん、新たに人を雇うのにはお金がかかる。それをまかなうために、日本社会から何を減らしてもよいかを合わせて考えなければならないのだが(ひとまずここでは論じないことにする)。