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研究者・学者が、自分と同類だと思ってほしくない人々

【まだ書きかえます。どこをいつ書きかえたかを必ずしも明示しません。】

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わたしから見ても本人から見ても「研究者」あるいは「学者」であると言えるだろう人々(以下「われわれ」はこの人々をさす)のなかまうちの雑談の中で、世の中で「研究者」「学者」として話題になっている人々(以下「学者と見える人々」はこの人々をさす)のことが話題になった。

「われわれ」は、「学者と見える人々」の全部ではないのだがかなり多くの部分(以下「彼ら」はこの部分の人々をさす)を、自分たちの同類だと思っておらず、世の人々に対して「同類扱いしないでほしい」と言いたいのだ。

「われわれ」のうちには、「『彼ら』は『研究者』『学者』ではない」とまで言う人もいる。わたしは、その論旨はわかるのだが、「研究者」や「学者」ということばの意味の広がりが人によって違うのも当然だと思う。ここでは仮に「学者」ということばの意味を広くとりながら「われわれ」の論旨をたてなおし、「『われわれ』は第1・第2の部類の学者であり、『彼ら』はそれと違った第3・第4の部類の学者である」のような言いかたをしようと思う。

仮に「世の中で話題になっている人」と呼んだのは、要するに、メディアに出てくる人のことだ。テレビ番組に出演する(出演してほしいという依頼を受ける)人、新聞・雑誌のインタビューを受ける人、ウェブ上の報道サイトやすでに有名になった個人のサイトで紹介される人、などだ。そしてここで問題にしている「学者と見える人」は、メディアに出るとき、「学者である」「研究者である」「なになに学の専門家である」といった形で紹介される人々のことだ。

「『われわれ』から見て、メディアに出る『学者と見える人』がみんな「われわれと同類の学者ではない」というわけではない。実際、雑談の場にはメディアにも研究者として紹介されながらたびたび出ている人もいたが、「われわれの内」扱いを受けていた。

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第1の部類の学者は、「その人自身のオリジナルな研究の成果を、同僚評価を受ける形で発表している」著作をする人だ。

「同僚評価を受ける形で発表する」とは、大部分の専門分野の場合に、論文が査読を受けて学術雑誌([2015-11-19の記事]参照)に収録されることだ。ただし専門分野によっては、本(専門書)の形で発表し、別の学者がその書評を書いてそれが学術雑誌にのる、という形になることもある。

「オリジナルな研究の成果」とは何かはもう少しむずかしい。「オリジナル」は、直接的には、他人がしたことの ひきうつし や まね ではだめだということだが、他人がしたことと かけはなれていればよい というものでもない。(そのことばの純粋な意味で独創的な仕事をする人は、ここでいう第1の部類の学者として認められることがむずかしく、世に出ようとすれば別の形をとる必要があるかもしれない。) 学者は学問の専門分科ごとに専門の議論が成り立つ集団(「同僚集団」と呼ぶことにする)を形成しており、研究の成果を発表する人は、同僚集団が共有しているこれまでの知識をふまえて、新しい成果は従来のものと、どこまで同じで、どこがどのように違う、といった形で述べる必要があるのだ。

学者の仕事としては、自分のオリジナルな成果を出すことのほかに、同僚集団の一員として成果を評価しあうことが重要だ。また、同僚集団の外の社会に向けて(ときには政策を決定する議会や政府などに向けて)、同僚集団が得た学術的知識をレビューして(評価しなおして)提供する仕事もある。第1の部類の学者もその仕事を分担するが、同僚評価やレビュー提供のほうを主な仕事としている人を第2の部類の学者と呼ぶことにしよう。

「同僚集団の一員として成果を評価しあう」仕事は、たとえば、学術雑誌の査読者あるいは編集委員として、また研究事業の評価委員として、自分勝手でもなく集団の言いなりでもなく、専門のこれまでの知識をふまえた自分なりの判断をすることだ。学者が研究機関の管理職をやらされる場合、学者がやる必然性のない管理業務もあるけれども、研究課題を選定するときや、部下の研究面の人事評価をするときに期待される機能は、ここでいう同僚評価に含まれるだろう。

「社会に向けて同僚集団が得た学術的知識を評価しなおして提供する仕事」の例としては、IPCC (気候変動に関する政府間パネル)の評価報告書(assessment report)の著者たちの仕事がある。IPCCは、国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)の各締約国に対して評価報告を提供する。

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【学者は、自分の主張に対して反対の見解が示されることに対して、適度に頑固で、適度に柔軟である必要がある。

しかし、ものすごく個人差があるのだが、人はとしをとるにつれて頑固になりがちだ。実質的に同じ主張をくりかえすことしかできなくなったり、自分の主張に対する批判に聞く耳を持たなくなったりしてしまう人もいる。そうなってしまった人は「もう学者ではない」というのは言いすぎかもしれないが、ここでいう第1・第2の部類の学者からははずれてしまっている。この件は、このブログで何度か述べた「学説過信」の問題につながる。「学説過信」の議論はまだよく整理できていないので別の機会をつくって論じたいが、今回の記事ではここまでにしておく。】

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「われわれ」が自分たちとは違うと感じた「彼ら」も、本や、学者以外の人から見れば「論文」と言われるようなものを書いていることが多い。しかし、それがしっかりした査読を受けた学術論文であったり、学術雑誌の書評でよい評価を受ける専門書であったりすることは少ないのだ。その著作物は、何かの専門集団の共有知識に対してどこが同じでどこがどう違う、という態度で書かれていないのだと思う。

「彼ら」をさらに2つの類型に分けることができそうだ。第3、第4の部類と呼んでおこう。

第3の部類の「研究者・学者」は、まず主張したいことがあって、どちらといえばその主張を広めることを主な仕事と思っているが、主張を支える根拠を示すために、調査・研究活動もする。主張が政策にかかわるものである場合は、その人の活動の主要部分はアドヴォカシー(advocacy)、商売にかかわるものである場合は、(直接の商品の広告よりは間接的ではあるが)宣伝広告活動だということができるだろう。商売に関する利害が、規制や公共事業などの政策に関するアドヴォカシーの動機となることもある。

【第1・第2の部類の研究者・学者もアドヴォカシーにかかわることはありうる([2014-05-25の記事]で論じた)。ここでは、その人にとってアドヴォカシーが副の活動である限りは第1・第2の部類であり続けることができるが、アドヴォカシーが主になってしまったら第3の部類に移ったととらえることにする。】

第4の部類の「研究者・学者」は、世間が求めている言説を察知して、それを根拠づける(ように聞こえる)材料とともに言ってみせる。その言説を文章として提供するのならば「売文家」と言えるかもしれない。テレビに出るならば芸能人に似たテレビタレントの一種だろう。ここでテレビタレントという職業を軽蔑する意図はないし、「売文家」では軽蔑表現になってしまうかもしれないが、請け負いで文章を書く もの書き は社会が必要とする職業だと思う。ただ、テレビタレントや請け負いもの書きの役割をしている人が従う規範は、ここで第1・第2の部類として示した学者が従う規範とは違うものだろう。人をメディアに出すときには、読者・視聴者に、どの部類の人であるかが明確に伝わるようにしてほしいと思うのだ。

第4の部類の人が、スポンサーをもち、スポンサーにとってつごうのよい主張のアドヴォカシーや宣伝広告をすることもあるだろう。したがって第3の部類と第4の部類とを実際に区別することはむずかしそうだ。

第3・第4の部類の人を、第1・第2の部類の人と、所属や肩書きで区別することは必ずしもできない。しかし、所属や肩書きを詳しく見ると、いくらか確率的な推測はできる。(個々の人が、同じ所属や肩書きの人と違った属性をもつこともあるので、所属や肩書きだけで決めつけない注意も必要だ。)

第3の部類の人の所属は、「研究所」「研究機構」と呼ばれる団体であることが多いが、その団体の事業は、政治的主張をすること、業界の利害を代弁すること、社会運動をすることなどのねらいがあって、研究活動をしているとしても副次的であることが多い。英語でも、このような団体の組織名はInstituteなどがつき、日本語で「研究所」と訳されることが多いが、団体の分類としてはthink tankと呼ばれ、日本語でも「シンクタンク」と表現されることが多い。シンクタンクのうちには、ここでいう第1・第2の部類の研究をするところもある(ただし契約によって研究を請け負う場合が多い)。しかし、シンクタンクと呼ばれるもののうちかなり多くが、アドヴォカシーや宣伝を目的とし、それを支えるようなここでいう第3の部類の研究をする団体なのだ。

第4の部類の人の所属も「研究所」「研究機構」と呼ばれる団体であることがあり、その内容はまちまちだが、そのうちには事実上個人事業であることも多いだろう。

第3・第4の部類の人の所属が大学であることもある。ただし、この部類の人が大学の専任の教授・准教授として採用されることは多くない。第1の部類の実績があって専任に採用されたあとで、仕事の内容が第3・第4に変わってしまう人はときどき見かけられる。しかし、第3・第4の部類の人の大学所属で多いのは「客員」や「非常勤」としての所属だ(さらに「研究生」や「大学院生」でも大学の人として扱われる場合もある)。(もちろんそのような肩書きの人がみんな第3・第4の部類ではなく、第1・第2の部類の人もいる。)

「特任教授」のたぐいの職名は、大学本来の教職員雇用予算でなくほかの資金で雇われている人をさすことが多いが、名称も意味も各法人ごとに違うし、同じ法人で同じ職名で雇われていても職場ごとに業務内容が違う。そのような職名の人が第3の部類の人である確率が高いとはいちがいには言えない。しかし、そのうち、スポンサーが明確な「寄付講座」で雇われた教職員が、スポンサー側から出向してきた人など、スポンサーと利害関心を共有する、ここでいう第3の部類の人であることはよくある。(寄付講座でも、大学・スポンサー両者の見識によって、第1・第2の部類の学者を雇うように設計されている場合もある。)

社会は、ここでいう第3・第4の部類の人々に対する需要ももっているのだろう。しかし、そういう人たちによって第1・第2の部類の研究者・学者に対する需要が満たされたと思わないでほしいのだ。