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AGU GC22B: 気候変化に関する科学コミュニケーション(2)

AGU Fall Meeting [12月10日の記事1参照]から。[12月11日の記事4]に続く話題。
GC22B「Communicating Climate Science―Seeking the Best of Old and New Paradigms」

Mann (Penn State Univ.)は古気候研究者で、いわゆるホッケースティック論争(2007年ごろまでのところは[わたしの別記事]参照)でも、電子メール暴露をきっかけとするいわゆるClimategateでも、温暖化否定論者からの個人攻撃の標的となった。最近、The Hockey Stick and the Climate Wars (2012, Columbia Univ. Press)という本を出している。講演内容はおもに自分が受けた攻撃に対する認識で、政治家(たとえばBarton下院エネルギー・商業委員長)やマスメディアに出る評論家などによる論評は、科学の内容にあまり関係なく、(動機が個別産業の利害か、政府による規制一般に反対するイデオロギーかはともかく)地球温暖化対策の政策を妨害したいという政治的動機によると考えられるということだった。それに自分がどう立ち向かったかの話は(おそらく講演時間の制約で)本を出したことのほかはあまり具体的ではなかった。(RealClimateブログの話はPA23Bでされたはず。)

Oreskes (California大学San Diego)は、このセッションでは、温暖化にかかわる科学者の発言が、温暖化の脅威を強調するほうに偏っていると言われることがあるが、実際はその反対に起こりうる被害を小さめに見積もるほうに偏っているのだという話をした。このことは確立された事実のように語られて、その理由を科学者社会の価値規範に求めていた。科学者は、新奇な事実を発見したと思っても、発見したと述べるまでに、すでに知られた事実を見まちがえた可能性のほうを慎重に検討する。Mertonの言ったCUDOSのうちの「organized skepticism」は(Oreskesによれば)このことなのだ。Oreskesたち(Brysseほか, 2012)の新しい表現では「科学者はなるべく劇的でないほうにまちがうほうを選ぶ」。これは純粋科学の場合はよい態度だが、人間社会が直面する不確かな危険に対する助言の際には避けるべき態度だとOreskesは主張していた。わたしから見ると、「科学者は危険を小さめに見積もるほうに偏っている」という事実認識は、もっと証拠をあげてもらわないと納得できない。ノイズレベルを越えない変異を無視し、ノイズレベルを越えた変異は偏りなく評価したとすれば、平均すれば過小評価になる。そういうことならばありそうだが、それを「科学者は過小評価のほうに偏る」とまとめるのはあまりよいまとめかたではないだろう。

  • Keynyn Brysse, Naomi Oreskes, Jessica O'Reilly, Michael Oppenheimer, 2012: Climate change prediction: Erring on the side of least drama? Global Environmental Change, in press, http://dx.doi.org/10.1016/j.gloenvcha.2012.10.008 [この論文の情報はGC33Fの講演で知ったのだがここにあげておく。]

討論の中でOreskesは、「海氷の減少とハリケーンSandyとは関係があるか」という問いに対する正しい答えはまず「Yes」でそれからなぜYesなのかを説明すべきだと言っていた。(この話は翌日のGC33F [12月15日の記事1]のOreskesの講演に続く。)

わたしは、「関係があるかないかと言えば『ある』」という限りではもっともだが、「Yes」と言ってしまうことにも無理があると思う。地球温暖化との因果関係が科学的に述べられるのは個別の熱帯低気圧ではなく多数の熱帯低気圧の統計的性質だし、北極海の海氷の変化には温室効果強化による全球温暖化とともに気候システムの内部変動による北極圏特有の変化が重なっているにちがいない。もしその場の話題の主題が「地球温暖化」であれば(そして長い説明を聞きもしないで論理的弱点に対するあげあしとりをしようとする敵対的な人の前でなければ)、Yesと言ってしまってその含みを説明するのも悪くないと思うが、個別の熱帯低気圧が話題になったときその論法をとったのでは科学者としての発言でなくなってしまうように思う。発がんの因果関係の場合も同様だと思うが、「残念ながら個別の因果関係は科学が発達してもわからないのです」と言うしかないのだろうと思う。強く出るとすれば、その場の話題を明示的に気候の変化(地球温暖化)に切りかえて、その文脈で統計的な事実や推論を述べることだ。

Kahan (Yale大学)は欠席で講演とりやめだった。金曜日のGC53H [12月10日記事3]も欠席だったが、セッション企画者による代読があった。その話題はむしろGC22Bにふさわしいと思われた。気候変化のリスクの認知は、科学リテラシーが高くなるにつれて高まると期待する人々がいる。しかし、調査してみるとそれは単純ではない。「文化的認識(cultural cognition)の世界観のKahanのバージョンでは、人々の世界観をhierarchical対egalitarianと, individualist, egalitarian,communitarianの2軸で分ける。もともと気候変化のリスクを高く認知する傾向があるegalitariancommunitarianの人々の場合は科学知識がふえるとリスク認知が高まるのだが、hierarchicalindividualistの場合は逆に下がるのだ。(ただしアメリカ社会の中での調査であることに注意が必要だと思う。ここでのhierarchicalindividualistの人々は、気候変化や原子力や銃のリスクを低く認知し、銃を規制することのリスクを高く認知する傾向があるそうだ。) 人々はmotivated reasoningをする、つまり、与えられた情報を自分の世界観のもとで意味づけする。コミュニケーションの目的を達するためにはそれを考慮する必要がある。万能な方法があるわけではないので、会話の過程で相手の反応を見ながら提示のしかたを修正していくべきだということになるようだ。[この段落2014-09-16改訂]

  • Dan M. Kahan, Ellen Peters, Maggie Wittlin, Paul Slovic, Lisa Larrimore Ouellette, Donald Braman & Gregory Mandel, 2012: The polarizing impact of science literacy and numeracy on perceived climate change risks. Nature Climate Change, 2, 732–735. http://dx.doi.org/10.1038/nclimate1547

Somerville (Scripps海洋研究所)はこのセッションでは教育省(「DoEですがエネルギー省ではありません」と言っていた)の研究プロジェクトとしてやった実験的な大学院初級の大気科学の授業の報告をした。ピアジェ構成主義学習理論に基づいて考えた方法だそうだ。レビュー論文をのせる学術雑誌があると仮想し、教師がその編集者役になってレビューすべき主題を決め、学生に著者の役割と査読者の役割を交代で分担させる。レビュー論文を書いたり評価したりするために、学生はその主題に関する現実の学術論文などを読み、また、現実の科学者がしているものに近い形のコミュニケーションを経験する。学部レベルの授業に応用するにはだいぶ変更が必要だろうと言っていた。

National Snow and Ice Data Centerからはコミュニケーション担当のBeitlerが用意した材料を科学者のMeierが報告した。人々の問いに対して、観測データに基づく情報を提供することに徹した活動をしている。地球温暖化懐疑論で知られるブログ「Watts Up With That」で観測方法などに関する疑問が出たときに(Meierが)詳しく説明したこともある。

Arctic Research ConsortiumのCrowleyとその事業に参加した中等学校教師のWoodは、初等中等教育の教師を極地研究に参加させる事業について、教師のコミュニケーターとしての意義に注目した報告をした。NSFの資金による事業で毎年北極と南極に6人ずつの教師を送っているそうだ。教師は現地の環境とそこで研究者がやっている仕事を体験する。それが生徒に対する授業に生かされることも重要だが、同僚教師とのコミュニケーションを経て地域の科学教育に影響を与えていくことをねらっているのだそうだ。

Alley (Penn State Univ.)は、公共放送PBSの番組「Earth: The Operator’s Manual」の企画にかかわり出演もした経験とそれで考えたことを述べた。わたしはその番組をもとにした本を読んで[読書メモ]を書いた。前半が気候を中心とした地球環境問題の話、後半が社会を持続可能にしていくためにはエネルギー利用をどう変えていったらよいかという話。講演中、番組の一部をビデオで見せられたが、本とは表現方法がだいぶ違う。番組では、軍人や牧畜家などいろいろな人を出演させて本人のことばで語らせている。いろいろな聞き手がいて、それぞれ、だれに親しみを感じるか、だれの言うことを信頼するかが違うことを考慮に入れてそうしているのだ。また(これは本の場合も)、これから危険なことが起こりうることばかりを強調するのではなく、よい社会を作っていくことへの希望があることを共有していこうという姿勢をとったということだった。