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科学技術社会論学会シンポジウム「東日本大震災をめぐるこれまでとこれから」 より

2012年6月16日、シンポジウム「東日本大震災をめぐるこれまでとこれから〜問題の現在と将来、そのエビデンス〜」(開催案内 http://blog.jssts.jp/2012/04/2012_25.html )が、科学技術社会論(STS)学会 http://www.jssts.jpと「ファンディングプログラムの運営に資する科学計量学」プロジェクトhttp://scmfp.blogspot.jpの共催で開かれた。わたしはこれに聴衆のひとりとして出席した。

会場が「東京工業大学蔵前会館くらまえホール」とあったので、初めわたしは、予定に「6月16日 蔵前」と書きこんだ。東工大台東区蔵前にホールを建てたのかと思ったのだ。中央大学駿河台会館や、もはや一橋大学のものではないが一橋記念講堂の例もあるからだ。当日が近づいてからリンク先を見て大岡山であることがわかった。「蔵前」は地名→団体名→建物名と引き継がれたのだった。自分にとっては解決したにもかかわらず、主催者にもんくを言ってしまい、ていねいな返事をいただいて恐縮した。

少なくとも3人の人が話題をTwitterで伝えていたので、それをいっしょにしてTogetter 科学技術社会論学会シンポジウム「東日本大震災をめぐるこれまでとこれから」としてまとめた。

7月2日、プレゼンテーションファイルが http://scmfp.blogspot.jp/2012/06/blog-post.html にアップロードされている。

この日の話題は、あえて原子力事故を焦点からはずし、地震津波災害とそれからの復興をとりあげたものだった。

【ここに書くのはわたしの覚え書きであり、講演紹介の部分は講演者の意図をなるべく曲げずに書いているつもりですが、まちがえている可能性もあります。】

田中幹人(早稲田大学)・標葉隆馬(総合研究大学院大学): 災害弱者と情報弱者 −3.11後、何が見過ごされたのか / 東日本大震災をめぐる構造的課題−

災害の被害は、津波地震などの物理的災害要因(hazard)だけでなく、それを受ける社会の脆弱性による。脆弱性は不平等である。

東日本大震災の死者は津波による溺死が多い。高齢者に被害が集中している。

自治体ごとの集計データで見ると(原子力施設立地自治体は例外とする)、ひとりあたりの所得が低い自治体ほど死亡率も住宅被害率も高い。浸水面積は直接あまり関係ないが、浸水地に住んでいた人の割合が高いところ(ほかに適当な土地が乏しいところ)で死亡率が高い。このような経済格差は復興の際にも残るおそれがある。阪神大震災後、神戸市長田区の再開発はできたが復帰したのは比較的豊かな2-3割の人だけだった。

また、インターネット利用者に高齢者が少なく、低所得者が少ない。情報格差につながる。

メディアの話題は都市圏で作られる。3か月くらいで被災地以外は日常にもどり、エンターテインメントなどの話題がふえた。ブログ・Twitterでは震災の話題は約1か月でわずかになり、放射線被ばくの話題が残った。新聞のほうが震災の話題を維持していた。

言論の生態系に多様性があるべきだ。とくに民主的意志決定のためには必要だ。マスメディアとネット、情報量の制限のあるメディアとないメディアそれぞれの役割がある。

質疑応答で、災害リスクという用語の意味が専門間で違うことが指摘された。害(hazard)の大きさ、確率、暴露量、脆弱性、被害者の感情などのうちどれを重視するかの違いだ。これも議論のすれちがいのもとになるので注意が必要だ。

この発表の話題は、シンポジウムよりもあとの7月、次の本として出版された。

  • 田中 幹人、標葉 隆馬、丸山 紀一朗, 2012: 災害弱者と情報弱者 -- 3.11後、何が見過ごされたのか (筑摩選書 0047)。筑摩書房, 222 pp. ISBN 978-4-480-01546-4.

粥川準二(ジャーナリスト): ジャーナリストの立場から見た被災地

粥川氏は執筆、編集、翻訳、教育(大学非常勤講師)の4つの職能をもち、便宜上ジャーナリストと名のっている。

2011年5月から被災地の取材をしている。原子力事故被災地も含むがこの日の話の中心は津波被災地。発表は写真を中心として、現地の人に聞いた話も含めていた。

被災者のうちには話したがらない人がいる。声をあげられる人には共感があつまるが、声をあげられない人に注目が集まっていないという問題を感じるそうだ。スピヴァクのいう(もとはグラムシによる)サバルタンの問題につながると考えているそうだ。【サバルタンということばは、時間がなくて講演では論じていなかったが、標葉氏のプレゼンテーション画面にもあった。どこの言語か見当がつかなかったが、あとで少し調べて、英語のsubalternであることを知った。】

大木聖子(東京大学): 地震の科学と「想定外」

まず地震学として東北地方太平洋域地震がどのように想定外だったか。地震のとき動く震源域を分割して考えていた。2つの領域の連動までは考えていた。3月9日のM7.3(あとで考えると前震)は1領域の破壊であり、連動しないでよかったと思った。大震災直後には4領域が連動したと考えられたが、それは事前の予想を越えていた。その後、7領域の連動だとわかった。ただしそれで計算されるマグニチュードは8.3だ。貞観地震の研究も進んでおり、文部科学省は長期評価に組み入れることを2011年4月10日発表予定だったが、その推定マグニチュードもM8.4だった。M9.0になった理由は基礎科学的な意味で未知なのだ。

2004年のスマトラ地震で考えが変わり始めてはいたが、それまで巨大地震があったことがわかっているところは南米とアラスカであり、日本付近はそことのプレートの沈みこみ角度やくっつきかたの差が認識されたので型が違うと議論された。アスペリティモデルとはそのくっつきかたの理屈で、経験的に現象を見て判断した研究途上のモデルだったが、完成されたモデルのように思ってしまった。震災後の地震学会での討論で「批判精神がたりなかった」という発言があった。

東海・東南海・南海の3連動は想定されていて、マグニチュードは宝永地震を参考に8.6とされていた。東日本大震災のあと内閣府で見なおして9.0としたが、変更の科学的根拠は薄弱で、むしろ政治的判断で東日本と同じ値をめやすとしたようだ。科学的上限はもっと大きい。

この件に限らず政府やメディアは「科学的に安全」とか「科学的にこれが最大」という表現をよくするがそのほとんどは根拠がない。

今後力を入れるべきことは、過去の地震の調査と、リアルタイム情報の発信だ。また、科学には、直接役にたつことではないが、新しい世界観を見せる役割もある(と大木氏は考える)。

科学による情報が被害をもたらしてしまったことがある。例のひとつは1914(大正)の桜島噴火。住民の問い合わせに鹿児島測候所は「噴火なし」と答えたが噴火が起きた。もうひとつは2009年のイタリアのラクイラ地震群発地震があり、ある技術者がラドン地震を予知したと言って避難をよびかけた。国が専門家会議に基づいてその予知には根拠がないと発表した。4月6日にM6.3の地震が起きて309人の死者が出た。専門家が過失致死罪で訴えられ、まだ決着がついていない。

東日本大震災では避難指定場所で亡くなった人も多い。指定場所を決めた際に想定した津波が小さかった。高台をめざせばよかったのに建物にのぼって助からなかった人もいる。別のところでは建物にのぼって助かった人もいる。どういう避難がよいかは一律ではなくそれぞれの土地の事情にもよる。

大震災の津波の高さが知られたあと「どのくらいの高さの津波が危険と感じるか」という問いへの答えの数値が上がってしまった。心理学でいうアンカリング効果だ。これでは大震災の津波よりは小さいがなお危険な津波に対しての備えが弱くなる。高い数値ばかり発信するのが防災につながるかは疑問だ。

2004年のインドネシアに比べれば被害は減らせたが、命をまもるためにできることはまだある。ただし国が安全を保証することはできない。「そなえてください」という論理展開にするべきだ。科学の知見の発信のほかに、防災教育が大事だ。これはすべての科目に入れることができる。(あわせて環境教育にみなおしが必要だ。人間優位で自然をまもるという姿勢を脱却する必要がある。)

【大木氏のめざす方向をわたしなりに整理しなおしてみると、まず住民が科学知とローカル知を組み合わせて災害に対処するのを支援すること、そして、彼らの科学知への要求を科学者と共有することだと思った。前段はリスクコミュニケーション、後段は科学コミュニケーションと言えるかもしれない。また住民の期待に応じて科学知を提供することはサイエンスショップと言えるかもしれない。

ただし多くの地震学者のめざす方向はあいかわらず数理物理的モデリングによる予測能力を高めることが防災につながるというもののようであり、大木氏とはずれているようだ。気象学では数理物理的モデリングが天気予報という社会の期待にこたえることに直結したので、多くの地震学者がそれが本道と思うのも無理もない。しかし、たぶん大気という対象が地殻よりも運がよかったというべきなのだろう。】

原塑(東北大学): トランスサイエンスという概念と東日本大震災
哲学の立場から。野家啓一氏の議論とも重なるところがある。

トランスサイエンスという概念が、それを言い出したAlvin Weinberg氏のものと、日本で紹介した小林傳司氏や藤垣裕子氏などのものとで食い違っている(と原氏は指摘した)。【わたしはこれまでこの違いを意識していなかった。小林(2007)を、Weinbergを紹介した部分と、Ravetzのpost-normal scienceを紹介した部分や小林氏自身の考えを述べた部分との区別を意識しないで読んでしまったからのようだ。自分の考えは両者の中間にあることを自覚したので、今後は意識的にそういうことにしようと思う。】

Weinberg氏の議論では、トランスサイエンスの領域は、科学だけでは答えが出せないとは言うものの、基本的には科学的真理追求の領域なのだ。Weinberg氏は政治の領域に合理性があると思っておらず、科学者と非科学者の双方向コミュニケーションに期待していない。トランスサイエンス的問題の解決は対審的手法による。

日本での議論では、トランスサイエンスの領域では、科学的合理性・科学知をもつ専門家と、社会的合理性・ローカル知をもつ一般人との双方向コミュニケーションに期待する。

この場合、社会的合理性をどう構築するかが課題だ。戸田山(2011)は、科学リテラシーを身につけ対話に参加する責任ある個人が「合理的市民」となると言う。しかしこれでは、コミュニケーションを市場的な主体間の作用とみなし、政治制度の批判を放棄する、木原英逸氏のいう「STS新自由主義的偏向」になってしまうのではないか。トランスサイエンス理論でリスクに対応(合意形成)しようとするとき、政治的問題はフレームからはずれ、リスクにさらされた個人が合意の責任を負う立場に追いこまれる可能性がある。政治的問題には別の理論枠組みが必要だ。

話は変わって格差の問題。日本の中心対縁辺の問題と、東北の地域間の格差の問題 (標葉氏の話題)がある。 長期的リスクが世代をまたいで維持・拡大することを防ぐ必要がある。

長期的リスクへの対処法を考えるうえで世代間倫理が重要だ。未来世代は討議に参加できず、双務的義務の根拠づけはむずかしい。考えられる対処法は、貯蓄原理、長期的リスクの存在とその対処法を知識として継承、直近の未来世代へ知的・経済的資源を継承など。トランスサイエンス的コミュニケーションの役割は限られるが、科学的合理性の面では専門家間の対審的コミュニケーション、社会的合理性の面では世代間倫理問題に対する現在世代内の意思決定の制度形成がある。

アカデミズムのできること

  • 文理横断的教養教育
  • 震災復興関連研究(長期的リスクをます可能性のチェックが必要)、経済格差・世代間格差の研究
  • 研究資源の世代間継承(文理横断を強調しすぎると失われがち)、人材育成

(討論の中で補足)

  • 国民と向き合う。現実の社会を動かす利害関心に深く足をつっこむことになる。
  • 知識の継承。その場の利害関心から離れる。中立性をもって、対話の主催者となる。

STSのやれることは、起こっていることへの対処よりも、分析、記録、データ蓄積、理論的反省など。

文献

  • 小林 傳司, 2007: トランス・サイエンスの時代NTT出版
  • 野家 啓一, 2011: 大震災以降の科学技術と人材育成。平成23年IDE大学セミナー「東日本大震災と人材育成」(IDE大学教育協会東北支部東北大学高等教育開発推進センター [PDF]), 53 - 78.
  • 戸田山 和久, 2011: 科学的思考のレッスンNHK出版 (NHK生活人新書)。

前波晴彦(鳥取大学):復興のための地域イノベーションを考える前に 〜地方大学における産学連携の現在〜
被災地の復興のために産学連携に期待がかかっている。地方大学の産学連携の実際について、(直接被災地ではなく)鳥取大学の場合を中心に説明する。

大学それぞれに産学連携の組織をつくっている。鳥取大学では「産学・地域連携推進機構」。事業の規模は共同研究・受託研究合計で7億円ほど。特許実施料収入は2百万円/年。地方大学の連携の相手は地域の中小企業。

大学が受けている企業からの受託研究数は横ばいで、JSTNEDOなどの公的資金を活用した中小企業への技術支援だけがふえている。過去の例として、JSTRSPという制度(1996-2005年)はコーディネータが予算を配分した。今のJST復興促進センターはこれに似たスキームがあるが、どう運用されているかはまだ知らない。

支援人材には、研究機関での萌芽的研究シーズ発掘、研究者の資金申請等の負担軽減、実用化に向けた産学マッチングなどの働きができる。

地方自治体側では自治体が設置した財団が産学官連携支援制度をになっているところが多い。

産学連携支援人材はコーディネータなどいろいろな職名をもつ。JARECによる大学・財団などすべてのセクターのアンケート(2007年)によれば全国で2000人程度。機関あたり1-3人。50才以上が8割。大半は企業で研究・技術あるいは企画・経営にたずさわっていた人。いろいろ問題がある。若手採用が少ない。必要能力が明示されていない。現場での訓練も困難。退職者のもつノウハウが引き継がれず消えていく。資金のマネジメント、特許関連、企業との連絡調整、共同研究開発の組織化などの専門人材が望まれる。

コーディネータ団体の研修メニューを見ると、実務的な項目ばかりだ。「科学技術と社会」といったメタな視点があるべきだ。

地方の産学連携は地域貢献(人のネットワークづくり)が主であり、経済的(イノベーション政策的)指標でははかりきれない。地方の産学連携を「科学技術と社会」の研究対象として扱ってほしい。

東北の復興支援は、東北の中小企業の必要にこたえる相談・助言から。

社会に資するものでありリスクが高い課題に公的研究費を投じるのがよい。資金があるから課題がつくられるというのはまずい。研究環境整備が目的なら直接そちらを支援する資金がとれるのが望ましい。

市民との連携も重要だが、そちらに偏ると地域の御用聞きになり研究機関でなくなりうる。市民からの課題を研究課題にできるとよい。

総合討論
中島秀人氏(STS学会長)が司会者として3件ぐらいずつ質問を受け、講演者に問いかける形で進められた。講演の補足にあたる回答は、わたしの覚え書きでは上の講演のほうに盛りこんだ。それ以外のものをここに書く。

(中島氏)

  • 科学技術政策はevidenceに基づくべきだという議論がさかんだが、他方、これまで任期制も、競争的資金も、研究効率が上がるというevidenceなしの思いこみで進められてきた。まずそれを調べるべきだ。
  • サバルタンにあたる人々は専門家の中にもいるだろう。原子力の末端で、危険だと思うが言えない人など。
  • 科学技術基本計画でいう「課題解決型」は短期的になりがち。「国民とつくり進める」も要注意。
  • 工科大学は地域の御用聞きになってしまう危険がある。かつてアメリカではその傾向をミリカンやコンプトンが是正した。MITは地域の御用聞きをやめることによって発展した。
  • アカデミズム(STSを含む)は社会に資する研究ができるのか?

(標葉氏)

  • STSは学会ができて10年たつが、今までにできたことは少ない。分析・提案・実践を1つのグループでやりつくせるものではない。もっとよい連携を。
  • アカデミズムは社会に資するか? 要求されている研究の次元がいろいろある。目の前の問題への応用ばかりではない。
  • 今は縦割りになっている。お互いを知らない。日本にどういう資源があるかを知る作業が必要。

(田中氏)

  • 議論が活発なほうがよいのだが、震災1年後、backlashを感じる。
  • ジャーナリズムでもアカデミズムでも望ましい活動をした人が沈黙する例が見られる。4月の人事ではじき出された人もいるようだ。
  • これまでは激しくやり合いながら一体感があった。1年後ごろ、対立から分断へ向かい、それぞれエコーチャンバー化していることを危惧する。

(学会長として中島氏)

  • 次のシンポジウムでは原子力の問題をとりあげることを計画中。

シンポジウムが終わった時点でわたしが考えたこと
考えがあまり深まっていないが、当日のメモを少しだけことばを補って書き出しておく。

  • 当事者に近づくこと・代弁することと、中立性との兼ね合い。大学や学会には両方が必要なのだろう。多様性を確保するとともに、組織として近づきすぎないルールが必要か。
  • 語れない当事者(サバルタン?)。その思いは結局のところわからないのかもしれないが、学者としては、なるべく語れない原因にさかのぼって、認識を補正してから対策へ向かうべきなのだろう。
  • 「トランスサイエンス」。わたしは概念を提出した人の視点にこだわらず今有効な概念を使いたい。Weinbergのtrans-scienceとRavetzのpost-normal scienceの中間のようなものを考えたい。小林傳司氏の考えとは近いと思う。用語は変えてもよいがひとまずトランスサイエンスとしておきたい。社会の問いに科学だけでは答えられないとき、答えられるように問題を調整するための対話をすることもある。また、社会の側では、不確かな科学知識を使う意思決定のしくみを、科学者の側では、不確かな科学知識の示しかたをくふうするべきだ。
  • 「トランスサイエンス」と「想定外」。科学として想定できることには限りがある。その外でもいわば「想像内」にして、科学の視点と他の視点をあわせて議論するのがトランスサイエンス活動なのだろう。境界設定が妥協によるかもしれない。その場合はそのことを明確に。
  • ローカル知も重要。しかしローカル知が正しくない場合もある。他地域に拡張適用可能かどうか判断する必要が生じることもある。
  • 地域のためのプロジェクトの評価。人間関係ができただけでよいとするのはまずいが、経済的評価だけもまずい。何を評価したらよいのか?
  • いくつかの継承性。研究能力の継承、専門知(顕在知、暗黙知)の継承、ローカル知の保存、非定型情報の保存(あとで科学的知見を抽出できるように)。